昌豨を降伏させる
夏侯淵は張遼の意見に賛成し、昌豨に使者を送って「曹公から命令があり、言いたいことがあれば張遼に伝えよ、とのことです」と告げさせ、張遼が窓口になることを示します。
すると昌豨は砦から出てきて、張遼と会談しました。
張遼は「曹公は神のごとき武勇を持たれ、徳義によって四方を引きつけている。
先んじて帰服すれば、大きな褒美がもらえるぞ」と言って、昌豨を説得します。
昌豨は張遼が予測した通り、降伏を考えていましたので、あっさりと張遼の言葉を受け入れました。
これを受け、張遼は単身で昌豨の家がある三公山に登り、その妻子に挨拶をしました。
昌豨は信義を示した張遼の行いを大変に喜び、一緒に曹操のところに行って服従しています。
こうして張遼はすぐれた観察眼によって反乱を鎮めたのですが、昌豨が帰った後で、曹操にとがめられました。
「単身で敵の家を訪れるのは、大将のやり方ではないぞ」
すると張遼は謝罪をしてから、「公の威信は四海(国中)に現れています。
私が昌豨の家をひとりで訪れたのは、彼はその威信を怖れ、災いをなすほどの勇気の持ち主ではないと判断したからです」と行動の意図を説明しました。
このように、張遼は単に強いだけでなく、状況を正確に把握し、対応できる能力も備えていたのでした。
北方の討伐で活躍する
袁紹が官渡の戦いで曹操に敗北し、やがて病死すると、北方は袁紹の子・袁譚と袁尚が支配するようになりました。
張遼は彼らの討伐に参加し、功績を立てて行中堅将軍に昇進します。
そして曹操が袁尚の本拠である鄴を攻撃した際には、別動隊を率いて陰安を攻め落とし、そこの住人を河南に移住させました。
また、鄴が陥落すると、またも別動隊を率いて黒山賊の根城となっていた常山を攻め落とし、彼らを降伏させて平定する手柄も立てています。
さらに活躍して昇進を重ねる
袁譚は一時、曹操と和睦し、従うようになっていました。
しかし、後継者の地位をめぐって争っていた、弟の袁尚が曹操に敗れると、北方を自分ひとりのものにするため、再び曹操と敵対するようになります。
このため、曹操は袁譚を討伐しましたが、この際にまたも張遼は別動隊を率い、遠く遼東にまで出撃し、賊の柳毅らを打ち破る戦功を立てています。
張遼が都に帰還すると、曹操はみずから張遼を出迎え、手を引いて一緒の車に乗せるという厚遇を見せました。
そして張遼を盪寇将軍に昇進させています。
こうして北方から戻ったかと思うと、次は南方の荊州に向かい、江夏の諸県を平定し、都亭候の爵位を与えられました。
このようにして、張遼は戦いの度に目立つ功績を挙げ、その地位はどんどんと高まっていきます。
張遼は騎兵の指揮に長けており、その部隊には機動力がありましたので、曹操の拠点から遠く離れた場所に出撃することが多くなっています。
それでいて安定して結果を出せることから、曹操から重用されたのでした。
異民族の単于を討つ
その後、曹操は辺境に逃げた袁尚を追撃し、柳城を攻撃するべく進軍しました。
すると袁尚に味方する烏丸族の単于(王)・蹋頓らが率いる数万の軍勢と、不意に遭遇します。
烏丸族は強力な騎兵隊を率いていましたが、張遼は彼らを前にしてもひるむことなく、曹操に攻撃をしかけるように勧めました。
曹操は張遼の態度は見事だと感じ入り、指揮官の旗を張遼に授け、先鋒を任せて思うように戦わせます。
すると張遼はさんざんに敵を打ち破り、蹋頓の首を斬る大きな手柄を立てました
このように、張遼の強さは騎馬民族をも、寄せつけないほどだったのでした。
この後で、付近の漢族や異民族が二十万人以上も降伏をしてきたので、曹操の威光は、北の辺境地域にもおよぶようになります。
それには、張遼の働きの影響が大きかったのでした。
反乱を鎮圧する
こうして北方の情勢が落ち着くと、張遼は再び荊州に向かいます。
しかしその出発に際し、軍中に反乱を計画した者がいました。
そして夜間に騒ぎ立てて陣中に火を放ったので、張遼の軍勢は混乱します。
張遼自身はまったくあわてておらず、落ち着き払って側にいる者たちに言いました。
「動かずにじっとしておれ。
これは陣営全体で反乱が起きたのではなく、一部の者が兵士たちを混乱させようとしているだけだ。
反乱と関係のない者は落ち着いて座っていよ」
張遼はそのように命じると、親衛隊の数十人のみを率い、陣営の真ん中に立って周囲の様子を探りました。
しばらくすると陣営は静かになり、反乱を起こした者たちだけが動いていましたので、すぐにそれとわかり、張遼は首謀者を見つけ出して討ち取ります。
こうして張遼は冷静沈着な措置によって、大事になる前に反乱を鎮めたのでした。
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