曹丕が皇帝になると、さらに厚遇される
曹丕は魏の帝位につくと、張遼を晋陽候に取り立て、千戸を加増したので、張遼の領邑は合計で二千六百戸となりました。
この規模で領邑を与えられた者は、曹氏の臣下の中でも限られた重臣たちのみです。
221年に張遼が都に戻ると、曹丕は張遼を宮殿で引見し、親しみを見せて孫権を打ち破った時の話をたずねました。
張遼が詳細な話をすると、曹丕は感激して「彼は古代の召虎に匹敵する勇者だ」と称えました。
そして張遼のために邸宅を建て、また張遼の母のために御殿を作って功績に報います。
それに加え、張遼に従った八百人の兵士のうち、生き残っている者たちを虎賁(近衛兵)に取り立てました。
病にかかり、皇帝と同じ食事が贈られる
張遼はこの頃から体調を崩すようになり、病がちになっていきます。
すると曹丕は侍中の劉曄に太医(皇帝の侍医)を伴わせ、見舞いに行かせました。
虎賁になった兵士たちも張遼を心配し、見舞いをしています。
ともに大きな功績を立てた間柄でしたので、その絆は強かったのでしょう。
曹丕は張遼に迎えをやって親しく見舞い、手をとって自分の御衣を授けています。
さらに、自分の食事を用意する係に命じ、皇帝が食べるのと同じ食事を張遼に届けさせ、回復できるように最善を尽くしました。
曹丕は自分が気に入った相手には、とことん親切にする性格でしたが、張遼はよほどに好かれていたようです。
孫権に恐れらつつ、逝去する
曹丕の世話のかいがあって、張遼は病がいくらか回復すると、征東大将軍の曹休とともに、長江沿いにある海陵に駐屯しました。
孫権は張遼が戻ってきたことを知ると、諸将に対し、「張遼は病にかかっているとは言え、敵対してはいかぬぞ。みな気をつけよ」と命じました。
以前の合肥における敗戦が、孫権の心に強く焼きついていたのでしょう。
この年、張遼は諸将とともに、孫権配下の呂範を撃破しましたが、これが最後の戦いとなりました。
やがて張遼の病は重くなり、江都で逝去しています。
曹丕が詔勅を下す
張遼の死を知ると、曹丕は涙を流して悲しみました。
張遼は剛候と諡され、子の張虎が後を継ぎます。
その後、曹丕は張遼と李典の、合肥における戦功を、改めて称賛する詔勅を出しました。
「合肥の戦いの際に、張遼と李典は八百の兵をもって十万の賊を撃破した。
古代からの戦争を見わたしても、これほどのことはかつてなかった。
現在に至るまで、賊の戦意を喪失させており、国家の爪牙というべき者たちである。
よって張遼・李典の領地をそれぞれ百戸分割し、一子に関内候の爵位を授ける」
張虎は偏将軍まで昇進してから逝去し、子の張統が後を継いでいます。
張遼評
三国志の著者・陳寿は張遼を次のように評しています。
「太祖(曹操)は優れた武勲を打ち立てたが、当時の優れた将軍と言うと、張遼・于禁・楽進・張郃・徐晃が第一と言ってよい」
特にこの中では、張遼と徐晃は詳細な戦功が伝わっているため、優れた将軍だったことがよくわかるようになっています。
張遼は特に最前線の攻撃隊長としての力量が優れており、強敵を次々と撃ち倒し、各地で戦功を立てました。
合肥の戦いが有名ですが、その他の戦場でも、困難をものともせず、その手に勝利をつかんでいます。
元は降伏した武将でありながら、魏軍の重鎮にまで登りつめたのも、当然のことだと言えるでしょう。
戦場での武勇という面で評価するのなら、張遼こそが魏軍でも随一だったと思われます。