大将軍は古代中国で設置された官職です。
秦から前漢への移行期(前206年頃)に任命され始めました。
特に有名なのは、前漢の高祖・劉邦に仕えた韓信です。
元は低い身分でしたが、才能を見いだされて大将軍に抜擢されると、別働隊を率いて各地を平定し、劉邦の天下統一に多大な貢献をしました。
【大活躍して楚王となるも、後に処刑された韓信】
前漢の当初は常設されておらず、異民族の侵攻や、反乱を討伐する際に、臨時に任命されています。
その後、積極的に外征を行った武帝(在位 前141-前87年)が即位すると、常設されるようになり、匈奴という異民族を討伐する将軍が、この地位に就くことが多くなっています。
この時期の大将軍では、衛青が名を知られています。
後漢では
武帝以後の前漢と、ついで後漢においては、皇帝の外戚(妻・母親の親族)が大将軍の地位を占めました。
そして単なる軍人ではなく、政治家として政権を支配するようになります。
その権力は絶大なものとなり、やがては誰を皇帝にするのかも、大将軍が決定するようになっていきました。
これに対抗するため、皇帝は身近にいる宦官たちを起用して権力を与えます。
※宦官は去勢された上で、皇帝の身辺の雑用などをこなす者たちです
その結果として、後漢では外戚と宦官の権力争いが常態化し、政情が不安定になっていきました。
三国志では
三国志に登場する何進は、大将軍の地位にありましたが、これは妹が霊帝の妃となって子を産み、やがて次代の少帝の母となったためです。
何進は189年に宦官と争って暗殺されましたが、その背景には、過去からつながる大将軍と宦官の抗争の歴史があったのでした。
それ以外には、曹操が196年に献帝を推戴した際に、大将軍に任命されています。
【短い間だが、大将軍の地位にあった曹操】
その後間もなく、曹操は当時強大だった袁紹との対立を避けるため、この地位を譲っています。
220年に魏が建国されると、功労者である夏候惇が大将軍になり、その後で曹仁もこの地位に就いています。
蜀では蒋琬や費禕、姜維といった、諸葛亮の後を担った人物たちが就任しています。
また、呉では上大将軍という、より上位の官職も設置されました。
その後
三国時代以後は、だんだんとその権力は弱まっていき、国家の柱石という立場から、軍隊の司令官の地位へと戻っていきました。
そして隋・唐の時代になると、大将軍が何人も存在するようになり、その権限は大きく低下します。
最終的には名誉職になり、実権を失いました。
日本では
日本では、地方の反乱を討伐するための征夷大将軍が有名です。
「征夷」とは「異民族を討伐する」という意味で、東北の蝦夷を征伐した坂上田村麻呂がよく知られています。
奈良〜平安時代までは、3個軍団を指揮する者が大将軍に任命される、という規定がありました。
他にも征東大将軍という地位が存在しており、源義仲が就任しています。
その後は源頼朝が、将軍は幕府(将軍独自の政庁)を設置できる権限を持っていることを根拠に、1192年に征夷大将軍となって鎌倉幕府を開き、武家政権を樹立しました。
【初めて武家政権を作った革新者・源頼朝】
以後、将軍や大将軍という名称は幕府の主導者として認知されるようになり、他の役割では使われなくなっていきました。