伊達政宗 戦国の終わりを生きた、奥羽の「独眼竜」

摺上原の戦い

いざ黒川城付近・摺上原(すりあげはら)での決戦が始まると、緒戦は風向きが蘆名軍に有利に吹いていたこともあり、蘆名軍が優勢となりました。

しかし時が過ぎ、風向きが反転すると伊達軍が攻勢に転じ、蘆名軍は押され気味となります。

ここで後衛にいて傍観していた、蘆名軍の部隊が撤退を始めました。

そうなると戦線の崩壊が止まらず、次々と諸部隊が戦場を去り始め、蘆名軍は総崩れとなってしまいます。

この時に撤退した各部隊は、蘆名氏の相続争いに敗れた派閥の武将たちが率いていました。

彼らは敵対していた勢力の養子が蘆名氏の当主になったため、相続争いの決着がついた後で冷遇されていたのです。

そのため、蘆名氏の危機となったこの戦いでも最後まで戦場に踏みとどまることはせず、蘆名氏が敗れるに任せました。

言うなれば政治的な要因によって蘆名氏は敗れ、政宗は勝利しました。

蘆名氏はこの戦いで5000を超える死者を出し、壊滅的な損害を出しました。

蘆名氏の当主・義広は会津に踏みとどまれず、遠く常陸にまで逃走してしまいます。

これによって蘆名氏は滅亡しました。

政宗はこうして初めて大きな勝利を手にし、伊達氏の勢力を飛躍的に伸ばすことに成功します。

陸奥の南部、出羽の一部と会津を合わせ、おおよそ150万石におよぶ領地を手に入れ、わずか22才にして伊達氏の最大勢力を築きました。

織田信長の事績にたとえるなら、尾張に加えて美濃を支配することに成功し、さらなる飛躍を遂げようかという段階に至ったことになります。

しかし政宗と信長ではすでに時代が異なっており(20年以上の開きがありました)、中央には決して地方勢力が突き崩すことができないほどの大勢力が形成されていました。

そのため、戦国大名として名を上げつつあった政宗の躍進にも、ここで歯止めがかけられることになります。

秀吉への臣従

政宗が会津の攻略に成功した翌年の1590年には、豊臣秀吉が関東を支配する北条氏の征伐を実施します。

この時、政宗のところにも参戦するように秀吉から命令が届きました。

伊達氏は父の輝宗の時代から北条氏と同盟関係にあったため、政宗は迷いますが、秀吉配下の浅野長政からの催促を受け、軍を率いて小田原に参陣します。

この時の秀吉は20万という大軍を率いており、政宗は秀吉と戦うべくもない現実を思い知らされます。

秀吉に臣従することを表明すると、秀吉は会津を政宗から没収し、本領を安堵することを伝えます。

会津が没収されたのは、秀吉の惣無事令を無視した行動だったからです。

また、天下への志を持ち、野心に満ちた政宗が多くの領地を保有していると、それが豊臣政権にとって災いになる可能性が高いとみなされたのかもしれません。

こうして伊達氏の領地は、元の72万石に戻ってしまいました。

この時に、政宗の妻の実家である田村氏が改易(領地没収)されています。

おそらくは、伊達氏の勢力を削ぐための措置であったと思われます。

これも政宗にとっては痛手となりました。

やがて北条氏が降伏し、そして政宗を始めとする東北の諸大名も秀吉に臣従したことで、秀吉の天下統一事業が完了します。

しかし政宗はこれで勢力の拡大をあきらめたわけではありませんでした。

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