伊達政宗 戦国の終わりを生きた、奥羽の「独眼竜」

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仙台の開発と慶長使節の派遣

関ヶ原の戦いが終わってからは、居城を仙台に移し、この街の発展のために力を尽くすことになります。

のべ100万人を数える人員を動員して開発を行い、こんにちにも続く仙台の発展の基礎を築きました。

1613年には遠くエスパーニャ(スペイン)にまで家臣の支倉常長を派遣し、ローマの地も訪れさせました。

これは西欧諸国と外交関係を結び、貿易や軍事同盟を締結することを企図していたのだと言われています。

政宗が広い見識をもって政略を考えていたことの証と言えるでしょう。

しかし、後に日本は鎖国し、キリスト教が禁教となったことから、この計画が成功することはありませんでした。

家光の支援者となる

政宗は三代将軍の徳川家光の時代まで生き、家光からは戦国の雄の生き残りとして尊敬を受けていました。

「伊達の親父殿」と呼ばれるほど親しまれていたようです。

家光は一族である御三家にも与えていなかった希少な馬を政宗に与えたり、政宗が病気になった際には医者や祈祷の手配を行ったり、実父である秀忠以上に政宗を大事にしていたとも言われています。

こういった態度にほだされたのか、老いた政宗も野心が鈍ったようで、家光が負担の大きな参勤交代の制度を発表した際には、「命に背くものがあれば討伐を仰せ付けくだされ」と申し出ました。

このため、他の大名たちは誰も反対することができませんでした。

戦国を生き抜いてきた政宗のそうした申し出には、かなりの影響力があったのでしょう。

仙台の発展

徳川家の天下が確定し、世が平和になってからは領国経営にさらに力を入れました。

運河を整備して北上川の流域を整備し、農業生産力を高めています。

その結果、表高62万石の領地が、後に74万石相当になるまでの豊かな土地になりました。

また、神社や仏閣の建設にも力を入れ、これが現代では国宝になるなど、文化的にも仙台を発展させています。

こうして平和な時代の領主としても有能であったことを示しました。

三国志に登場する曹操は「治世の能臣、乱世の奸雄」と呼ばれましたが、この評は政宗にも通じるところがあるように思われます。

戦国時代の末期に登場して戦場を駆け、秀吉や家康といった大勢力に飲み込まれつつも自分の勢力を拡大しようとあがき、晩年には平和な時代の領主として実績を残す。

そのように、時代に翻弄されながらも最終的には適応し、勢力の拡大こそ果たせなかったものの、伊達氏をさらに長く存続させることには成功しました。

その死

政宗は1634年頃から体調を崩し始め、1636年、食道の病によって没したと言われています。

享年は70でした。

なお、死に際して政宗は自分の墓所を立てる場所を指定しておきましたが、死後にそこを掘ってみると、僧侶の用いる数珠や錫杖などを祀った塚が見つかったそうです。

それは大日如来の生まれ変わりだと称していた万海上人という僧侶の塚で、政宗は生前から上人の生まれ変わりだと言われていました。

死に際してその塚のある場所を言い当てることで、伝承に真実味を持たせる演出をしたのではないか、と言われています。

死後を意識してそのようにふるまうあたりにも、「伊達男」と呼ばれた、政宗という人のありようがよく現れているように思えます。

後世からの人気も、そのような茶目っ気に支えられている面があるのかもしれません。

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