袁渙 呂布の脅しにも屈しなかった賢人

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梁国を統治し名声を得る

やがて袁渙はりょう国の相(統治者)に任命されます。

袁渙はいつも、次のように諸県に命令を出しました。

「やもめや未亡人、高齢者の慰労に務め、孝子や貞婦を表彰せよ。いつの世にも変わらない言葉に『世が治まっている時には礼法がゆきわたり、世が乱れている時には礼法が簡素になる』とある。全てはどのように斟酌するかで決まる。いまは騒乱が発生しているので、礼によって民を治めるのは難しいが、我らがどのようにふるまうかによって、政治がうまくいくかどうかが決まるのだ」

袁渙は政治を行うにあたり、教えて訓示することを大事にし、思いやりを見せてから後に政策を実施するようにしました。

外側は温和で柔軟にふるまいましたが、内側ではよく決断を下します。

やがて病によって官を辞しましたが、民は袁渙を慕いました。

清廉さによって感服される

後に諫議かんぎ大夫(皇帝を諌める役)につき、ついで丞相じょうしょう軍祭酒ぐんさいしゅ(首相の軍事顧問)に就任します。

その前後で多くの贈り物を受け取りましたが、それらをすべて使ってしまい、家には残しませんでした。

財産を持つことを心がけませんでしたが、乏しくなると、人から取り立てました。

このため、袁渙は純良であることを目指したわけではなかったのですが、それでも当時の人からは、清廉な人であるとして感服されました。

教育を盛んにすることを求める

やがて魏国が建国されると、袁渙は郎中令ろうちゅうれい(宮廷庁官)に任命され、御史ぎょし大夫(国政参議官)の事務を司りました。

この時、袁渙は曹操に次のように進言しています。

「いま、天下の大難は取り除かれ、文武はともに用いられるべきで、それこそが長久の道です。書籍をおおいに収集し、聖賢の教えを明らかにし、それによって民の耳目を改めるべきです。国中の者たちにこの気風が行き渡れば、遠くに住む服従しない者たちも、文徳によってこちらに引き寄せることができるでしょう」

曹操はこの進言を受け入れました。

袁渙は生涯に渡って学び続けていた人で、曹操は「年をとっても勉学に励んでいるのはわしと袁渙くらいのものだ」といった発言をしたりもしています。

劉備が死んだという知らせを祝わず

このころ、劉備が死んだという知らせがもたらされたことがありました。

これは誤報でしたが、劉備は魏と敵対していましたので、魏の群臣たちはみな祝賀します。

しかし、袁渙はかつて劉備に推挙されたことがありましたので、ひとりこれを祝うことがありませんでした。

袁渙はこのように、節義を備えた人物だったと言えます。

やがて亡くなり、特に穀物を贈られる

袁渙は魏の官位にあること数年で亡くなりました。

曹操は袁渙のために涙を流し、穀物を二千石ほど下賜しています。

布告を出し「太倉たいそう(官営の倉)から千石を郎中令(袁渙)の家に下賜せよ」と命じています。

そして「垣下えんかの穀物(魏の宮廷が蓄えている穀物)千石を曜卿ようけい(袁渙)の家に与えよ」とも命じました。

しかし、事情を知らぬ者たちは、その意図を理解できませんでした。

このため、「太倉の穀物を用いるのは官の法によるものである。垣下の穀物を用いるのは、旧知の者への親しみからである」と改めて布告しました。

千石は公の下賜品であり、残る千石は個人の情から出たものだと、曹操は言い表したのでした。

このことから、曹操が袁渙に個人的に親しみを抱いていたことがわかります。

曹丕が袁渙の人柄をたずねる

これから後のこと、曹丕が魏の皇帝になってから、かつて袁渙が呂布の命令を拒んだことを知りました。

そして袁渙の弟の袁びんに「袁渙の勇気は、いかほどのものであったか?」とたずねます。

袁敏は「渙は、相貌は柔和でした。しかし大義に関わる事態に接し、危難の中に置かれると、古代の勇者にも勝るほど勇敢になりました」と答えます。

一族が栄える

袁渙の子の袁かんは、父に似て清廉で質朴な人物で、郡太守や尚書(政務官)などを歴任しました。

その他、袁渙の従兄弟の袁もまた大司農(農務大臣)や尚書にまで立身しています。

袁渙の一族は高位を保ち、晋の時代でも栄えました。

袁渙評

三国志の著者・陳寿は袁渙を次のように評しています。

「袁渙は清廉に生き、その進退は道義にかなっていた」

袁渙は政治に関する見識があり、地方統治だけでなく、曹操の政策にも影響を及ぼしています。

一方で、呂布の意向に逆らって自分の意見を納得させるなど、勇敢であり、優れた知性を備えていた人物でもありました。