楽進 名将として評価されるも、記録の乏しい将軍

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楽進がくしんは張遼や徐晃らと並び称される魏の将軍です。

常に戦いでは先頭を駆け、敵陣を攻め落とす武功を立てています。

曹操からも高く評価され、右将軍にまで地位が登りました。

しかしそのわりに記録が乏しく、評価にふわさしいだけの話が伝わっていない人物でもあります。

この文章では、そんな楽進について書いています。

陽平に生まれる

楽進はあざな文謙ぶんけんといい、陽平ようへい郡のえい国県の出身でした。

体は小さかったのですが、激しい気性を備えており、曹操に従うようになります。

初めは帳下ちょうか(軍府)の役人に任命されていました。

やがて地元の郡に戻って募兵をすると、千余人の兵を得て、軍の仮司馬(指揮官)に任命され、陷陣かんじん都尉にもなります。

こうして楽進は、曹操軍の指揮官の一人になったのでした。

楽進地図

各地で戦功を立てる

その後、濮陽ぼくようでの呂布への攻撃や、雍丘ようきゅうでの張超との戦いや、での橋甤きょうずいとの戦いに参加し、いずれも先駆けを果たして戦功を立て、廣昌こうしょう亭侯の爵位を与えられます。

また、安衆での張繡ちょうしゅうの征伐や、呂布を下邳かひ城で包囲した際には、別働隊を率いていた敵将を撃破しました。

射犬しゃけん眭固すいこを攻撃し、はいで劉備を攻めた際にも、みなこれを打ち破り、討寇とうこう校尉に任命されています。

袁紹軍との戦いで活躍する

楽進は黄河を渡って獲嘉かくかを攻め、そこから戻ると、官渡における袁紹との戦いに従軍しました。

そして力戦し、烏巣で袁紹軍の食糧を守っていた淳于瓊じゅんうけいを斬ります。

それから黎陽れいようでの袁たん・袁しょうとの戦いに参加し、その大将である厳敬げんけいを斬り、こう遊擊将軍に任命されました。

このように、楽進は各地の戦いで敵将を打ち取る功績を立て、曹操軍の中でも際立った存在となっていきます。

活躍が続く

その後、楽進は別働隊を率いて黄巾賊を攻撃し、これを打ち破って楽安郡を平定しました。

それから袁氏の拠点であるぎょうの攻囲に加わり、平定が終わると、南皮なんぴにおける袁譚との戦いにも参加し、東門への一番乗りを果たしています。

袁譚が敗れると、別働隊として雍奴ようどを攻撃し、これを破っています。

曹操から称賛される

二〇六年になると、曹操が献帝に上表し、楽進と于禁、張遼を称賛しました。

「武力が大きく、計略が周到で、質実で忠実な性質を備え、節義をよく守っています。

戦いに臨むごとに、いつも兵を指揮し、奮闘して固い守りを突破し、攻め落とせない敵陣はありません。

自らばちと太鼓を用いて味方を鼓舞し、その手は休むことを知りません。

また、別軍を派遣して征伐をさせた時には、軍勢をよく統御し、兵士たちをいたわって和をもたらし、命令を奉り、罪を犯すことがなく、敵と戦って決断をする際にも、失敗をすることはありません。

功績を論じ記録に残し、それぞれが顕彰と恩寵を受けられるようになさってください」

これにより、于禁は虎威こい将軍に、楽進は折衝せっしょう将軍に、張遼は盪寇とうこう將軍に任命されました。

高幹らを討伐する

楽進はその後、またも別軍を率いて高幹こうかんを征伐します。

楽進は北道を抜けて上党に入り、回り込んでその背後をつきます。

その後、高幹らが戻って壺関こかんの守備につくと、楽進は連戦し、多くの敵の首を取りました。

高幹は固く壺関を守って降りませんでしたが、曹操が自ら征討にあたり、これを陥落させています。

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