魏延は撤退の命令に逆らう
諸葛亮が没すると、幕僚たちはこれを秘密にして公表しませんでした。
一方で楊儀は、費禕を魏延の元に送り、その意向を打診させます。
すると魏延は次のように言いました。
「丞相(諸葛亮)が亡くなられても、私は健在である。
丞相の幕府に属する者たちは、このまま遺体を運んで帰国し、埋葬すればよいだろう。
しかしわしは諸軍を率い、賊を討つためにここに残る。
一人の死によって、天下の大事を放棄するとは何事だ。
それに、この魏延を誰だと思っているのだ。
楊儀ごときの指図を受け、殿軍の大将など務めるつもりはない」
そしてそのまま費禕とともに、撤退する部隊と残留する部隊を区分けし、費禕に署名させ、自分と連名で諸将に命令を通達しました。
しかし魏延には、全軍に指示を出すほどの権限はなく、越権行為だったのだと言えます。
魏延は恨みを抱きながらも、諸葛亮にだけは従っていましたが、その彼がいなくなったことで、すっかりと歯止めがきかなくなってしまったのでした。
費禕は逃走し、魏延は孤立する
費禕は魏延に従うつもりはなく、次のように述べて立ち去りました。
「あなたのために立ち戻り、楊長史(儀)に説明いたしましょう。
長史は文官であり、軍事の経験が乏しいので、命令に背くことはないでしょう」
そして費禕が馬を走らせて立ち去ると、魏延はすぐに裏切られると悟って後悔し、彼を追跡しましたが、追いつくことはできませんでした。
魏延は人を送って楊儀らの様子を探らせると、彼らは諸葛亮の指示に従い、次々に軍を率いて撤退を始めます。
こうして魏延は一人で取り残されそうになりましたが、それでも諸葛亮の遺命に従わず、楊儀と敵対する行動を取ってしまいました。
楊儀と争う
魏延は楊儀がまだ出発しないうちに、先回りをしようと思い、配下の軍勢を率いて南方に向かいます。
そして通過する先々で、釣り橋を焼き落としました。
これは明らかにやりすぎであり、魏延は頭に血が上りすぎていたのだといえます。
魏延と楊儀はそれぞれに上奏し、相手が反乱を起こしたと訴えました。
こうして一日のうちに、成都に文書が次々に届けられます。
劉禅が侍中(皇帝の相談役)の董允や、留府長史(留守政府の副官)の蒋琬らに質問をすると、彼らはどちらも楊儀の味方をし、魏延を疑いました。
このあたりは、魏延の普段からの態度が影響したのだと言えます。
また、魏延が命令違反を犯していたのは事実でしたので、的確な判定でした。
こうして魏延の立場は、著しく悪化していきます。
楊儀と争うも、兵士たちが逃げ出す
楊儀らは山の木を切り開いて道を通し、昼夜兼行で魏延の後に続いて成都に向かいました。
魏延は先に到着すると、南谷口に陣をしき、兵を送って楊儀らを迎え討たせます。
すると楊儀らは何平を前方に配置し、魏延の攻撃を防がせました。
この時に、何平は魏延の先鋒部隊をどなりつけます。
「公(諸葛亮)が亡くなられ、まだその体が冷たくならないうちに、お前たちはどうしてこのようなことができるのだ!」
すると魏延の部下たちは、非が魏延にあることを理解していましたので、命令を聞くのをやめて逃げ出してしまいました。
魏延はこうしてすっかり孤立してしまうと、息子たち数人とともに逃亡し、漢中に向かいました。
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