長安を襲撃する策を提案する
この頃、魏の重要拠点である長安では、夏候楙(夏侯惇の子)が安西将軍として守備にあたっていました。
諸葛亮が幕僚たちと作戦を練っていた際に、魏延は長安に攻撃をしかけ、これを一気に奪い取ってしまおうとする策を提案します。
具体的には、「五千の兵と五千石の食糧を用い、十日ほどで長安に急行し、奇襲をしかければ、夏候楙は若年であり臆病者なので、必ず船に乗って逃走するでしょう」というのが魏延の主張でした。
そうなれば長安には文官たちしかいなくなり、やすやすと敵の食料庫が奪えるので、それを用いて長安の守りを固めます。
そして敵が援軍を送ってくるまでの間に、諸葛亮が斜谷を通って本隊を率い、長安に到着すれば、一度の作戦で大きく勢力を拡大できる、というのが魏延の述べたことでした。
しかし、長安は西方を抑えるための重要な拠点ですので、五千程度の兵で奇襲をしかけても、それで陥落させるのは難しく、夏候楙が逃走するだろう、というのは魏延の希望的観測でしかありません。
おそらく実行していたら、魏延の別動隊は長安を攻め落とせず、逆に壊滅させられる可能性が高かったでしょう。
このために諸葛亮は魏延の策を採用せず、より安全に、平坦な道をたどって進軍し、無理をせずに涼州を奪取する方針を堅持します。
すると魏延は諸葛亮を臆病だと思い、自分の才能が十分に発揮しきれないとして嘆き、恨みを抱くようになりました。
魏延は有能な前線指揮官ではありましたが、戦略を考案する能力はさほどのものではなく、これは思い上がりだったのだと言えます。
楊儀と仲違いをする
魏延は士卒を育成する能力があり、人なみ外れた勇猛さを備えていました。
そのうえ誇り高い性格だったので、当時の人々はみな彼を避け、顔を合わせればへりくだる態度を取りました。
しかし文官の楊儀だけは、魏延に対しても全く遠慮をしなかったので、魏延は楊儀に激しい怒りを向け、争うことが多くなりました。
この二人は水と火のように、相容れない間柄だったのだと言えます。
楊儀は事務処理能力がずば抜けており、諸葛亮は長史(副官)として、部隊編成や食糧の計算などの事務を、彼に取りしきらせていました。
一方で、魏延は実戦部隊の隊長として優れており、どちらも北伐に必要な人材でした。
このため、諸葛亮は費禕を二人の間に置き、争わないように、諭したり諫めたりさせることで、二人を使いこなしています。
しかしやがて諸葛亮が亡くなると、大きな問題が発生することになりました。
諸葛亮は魏延への対応を遺言する
234年の秋に、諸葛亮は遠征先の五丈原で重病にかかりました。
そのため内密に、楊儀と費禕、姜維らを呼び寄せ、自分が死んだ後の撤退に関する指示を与えました。
この時、魏延には殿として敵の追撃を絶たせる役割を与え、姜維らはそれに先行して撤退するように伝えます。
そして魏延がもしも命令に従わなかった場合には、他の部隊はそのまま出発するようにと命じました。
諸葛亮は魏延の性格からして、自分が亡くなった後には、楊儀を含む幕僚たちの指示をきかなくなる可能性が高いと、見越していたのでしょう。
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