馬岱に討たれる
楊儀は馬超のいとこである馬岱に追跡させ、魏延を討たせています。
やがて魏延の首が届くと、楊儀は立ち上がってそれを踏みつけました。
そして「愚か者め! もう一度悪事を働けるものなら、やってみせろ!」と罵倒しました。
この後、魏延の一族はみな処刑されています。
ところで、楊儀もまた魏延とは違った形で性格に問題を抱えており、このために失脚し、自害して果てています。
三国志演義では
三国志演義においては、諸葛亮は魏延には「反骨の相」があるとして、自分の死後に反乱を起こすだろうと見抜いています。
このため、あらかじめ馬岱が魏延の部下になるように仕向け、将来の禍根を断つための措置を取りました。
そして実際に魏延が反乱を起こすと、楊儀が魏延に「『誰かわしを討つ勇気がある者はいるか!』と三回言えたら漢中を譲ってやろう」と持ちかけます。
これは諸葛亮の、生前の指示によるものでした。
挑発に乗った魏延が「誰かわしを討つ勇気がある者はいるか!」と叫ぶと、側にいた馬岱が「ここにいるぞ!」と叫んで魏延を討った、という筋立てになっています。
これによって、諸葛亮の予測能力と策が優れていたことが強調されています。
反逆をするつもりはなかった
三国志の著者・陳寿は、「魏延は北に行って魏に降伏せず、南に帰っていることから、楊儀らを取り除き、全軍を率いる権限を得たいと望んでいただけだったのだろう」と推測しています。
魏延は日頃から諸葛亮配下の諸将と折り合いが悪く、作戦への同意も得られませんでした。
ですが諸葛亮が亡くなった後には、当時の世論が、諸葛亮に代わるものとして自分を望むに違いない、と期待していたようです。
魏延の意図はこのようなものであり、蜀という国家に対して反逆を起こそうと思ったわけではなかったのでした。
しかしながら魏延には人望がなかったので、おとなしく戻っていたとしても、全軍を任されるほどの立場につくことはなかったでしょう。
魏延は自分のことを過大評価する傾向にあり、結局はそれによって自滅したのだと言えます。
高望みをしなければ、この後も蜀軍の重鎮としての立場は与えられていたことでしょう。
魏延自身は、劉邦における韓信のごとく、天下の情勢そのものを変えられるほどの実力があると思っていたようですが、その才能はあくまで一人の将軍としては優れている、という程度のものであり、そこまでの水準のものではありませんでした。
魏延評
『季漢輔臣賛』という、蜀の臣下たちを顕彰する書物では、魏延が次のように評されています。
「魏延は猛々しい人物で、危難に臨んで命令を受け、外敵を防いで戦い、国境をおさえ守り抜いた。
しかし他人との協調性に欠けており、節義を忘れて反乱の意志を述べた。
最後の行為を憎み、最初の功業を惜しむものだが、その過ちは彼の性格から出たものだった」
魏延は武将としては優れており、劉備に抜擢されるだけのことはありました。
しかし感情を抑制することができず、プライドが高すぎたあまりに現実が見えなくなり、ついには身を滅ぼしてしまったのでした。
関連記事


