秀次の切腹
秀次が自害する際、側に残っていた5人が死出の供をすると申し出ます。
そのうちの一人は武士ではなく、虎岩玄隆(こげん げんりゅう)という、秀次が師事していた僧侶でした。
虎岩玄隆はこれまでの恩義に報いるためだと言い、秀次から刀をもらい受け、僧であるにも関わらず見事に切腹し、殉死を遂げています。
この玄隆の殉死や、家老たちが死を賭して秀次を守ろうとしていることから、秀次にはかなりの人望があったものとうかがえます。
他には小姓として秀次に従っていた、不破万作、山本主殿助、山田三十郎が切腹し、秀次が自ら介錯しています。
秀次は5番目に、自らの切腹を行いました。
介錯を務めたのは雀部重政(ささべ しげまさ)という秀次の家臣で、彼はかつて千利休の介錯を行ったことがありました。
剣の扱いを得意としていたことで、彼は奇しくも、2人もの要人の自害を見届けることになっています。
秀次は重政の介錯によって果て、重政もすぐにその後を追って自害しました。
秀次の享年は27でした。
しかし、事態は秀次の死をもってしても、終わることはありませんでした。
妻子の処刑を命じる
福島正則は秀次の首を、秀吉が検分するために伏見城へと持ち帰っています。
秀吉は秀次の首を見て、自分に引き上げてもらった存在であるにも関わらず、朝鮮への出兵を拒み、愛しい秀頼の存在を危うくするやもしれぬ、彼にとっての不届き者を成敗できたことを確認しました。
しかしそれだけでは気がおさまらなかったようで、「秀次の妻子を皆殺しにするように」と命じます。
もはや秀吉に逆らう者はおらず、この命令は忠実に実行されます。
こうして丹波亀山城に送られていた妻子たちは京に戻され、翌日に処刑されると通告されました。
このため、秀次の妻たちは、辞世の句をしたためるなどして、備えています。
8月2日、妻子たちは三条河原に作られた処刑場に送られました。
それは数十メートル四方の空間で、周囲を堀と鹿垣に囲まれており、決して逃げ出せないようになっていました。
さらに悪趣味なことに、妻子たちに見せつけるため、秀次の首を置いた塚が側に築かれています。
処刑の実行
秀次の正室の「一の台」は、高位の公家・菊亭晴季の娘であったので、秀吉の妻・北政所が助命を必死に懇願しますが、秀吉はこれを頑として受け入れず、容赦なく一番はじめに処刑しました。
そして秀次の首の前で、子どもたちも次々と殺害されます。
処刑人たちは子どもたちの遺体の上に、母親たちの遺体を無造作に積み上げていったため、見物に来ていた者たちが「やりようがあまりにひどすぎる!」と非難を浴びせる騒ぎになっています。
この時に全部で39名の妻と子どもたちが処刑されましたが、中にはまだ聚楽第に到着したばかりで、秀次とほとんど顔を合わせてもいない姫君が含まれていました。
その母親はこの悲劇を知って、しばらく後に自害したと言われています。
処刑が終わると遺体はまとめて一つの穴に投じられ、埋め立てられました。
そしてその上に、秀次の首を収めた石の箱が置かれ、首塚が作られています。
塚には「秀次悪逆」という文字が刻まれ、人々からは「畜生塚」と呼ばれるようになりました。
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