孟達は寝返りを決意する
孟達は諸葛亮の手紙を受け取ると、その後もたびたび連絡を取り合い、魏に反旗を翻そうと考えるようになります。
孟達は魏の皇帝・曹丕に気に入られていましたが、曹丕が亡くなり、親しかった魏の武将も没すると、だんだんと孤立するようになりました。
そのために、蜀についた方が良いのではないかと、考えるようになったのでした。
この点から見ると、諸葛亮が孟達に手紙を送ったのは、正解だったのです。
同時に、費詩の進言は的外れだったのでした。
孟達は司馬懿に討ち取られる
しかし、この孟達の寝返りは、魏によって察知されてしまい、やがて司馬懿が将軍として派遣され、孟達に反抗の隙を与えないほどの速攻によって、討ち取っています。
この結果、孟達を寝返らせる策自体は、失敗に終わってしまいました。
三国志には、「諸葛亮は孟達に誠実な心がないので、救助しなかった」と書かれてますが、仮にその気持ちがあったとしても、救援をするのは物理的に困難な情勢でした。
諫議大夫となり、やがて亡くなる
やがて諸葛亮が亡くなり、蒋琬が後を継ぐと、費詩を諫議大夫に任命します。
これは皇帝に誤りがあった場合に、諫言をしてただすのが職務でしたので、費詩にはある程度の適性があったと言えます。
しかしほどなくして、費詩は自宅で亡くなりました。
結局は口が災いとなり、国政に携わるような、重い役職に用いられることはなかったのでした。
費詩評
三国志の著者・陳寿は、費詩を次のように評しています。
「先主の広い度量、諸葛亮の公正な態度がありながらも、費詩は直言を吐いたために、出世の道を閉ざされた。
ましてや凡庸な君主を相手にした場合は、どうだっただろうか」
費詩は関羽に対した時には、的確な言葉を述べて使者の役目を果たせたのですが、その後、劉備や諸葛亮に対した時には、そうではありませんでした。
国家の大事や戦略といった分野になると、費詩の知力では的確に物事を考えることができず、ずれた意見を述べたために、不興を買ってしまったのです。
費詩は孟達を小人物だと評しましたが、費詩自身もまた、自分の能力の限界がわかっておらず、にも関わらずに直言をせずにはいられない性格だったので、失敗を重ねてしまったのかもしれません。
的確に意見を言うには、相手と同じ目線で物事を見なければなりませんが、上位にいる相手にそれを行うのは、なかなか難しいことのようです。
なお、費詩の子の費立は晋の散騎常侍(皇帝の側近)になっています。
その後、費詩の血統は栄え、益州で立身した費姓の者たちは、みな費詩の子孫だったと伝えられています。
子孫たちには、出世を妨げる発言をするような者は、いなかったのかもしれません。