龐統に評価され、劉備に会う
龐統は客が帰った後で戻ってきましたが、すると彭羕は図々しくも、食事を要求しています。
龐統はこれに応じてやり、その後で彭羕と語り合いました。
そして彭羕はそのまま二晩も宿泊し、龐統と時を過ごします。
すると龐統は、彭羕のことを高く評価しました。
同じく劉備の側近となっていた法正が、以前から彭羕を知っていたこともあり、龐統と一緒になって、劉備のところに連れて行きます。

劉備にも評価され、用いられる
劉備もまた、彭羕と会って話をすると、高く評価しました。
このことから、彭羕には確かな才能があったようです。
劉備はたびたび彭羕に、軍事の用向きを広く通達させました。
そして諸将に指示を出させましたが、使者としての務めを充分に果たしたので、日を追うごとに、劉備に気に入られていきました。
抜擢を受けるも、やがて疎んぜられる
やがて劉備が益州を平定すると、彭羕は抜擢を受けて治中従事(側近)となります。
彭羕は囚人だったのに、一朝にして州民たちの上に立つことになったのでした。
と、ここまではよかったのですが、彭羕は急に身分が高まったので思い上がり、優遇されることを鼻にかけ、そのふるまいがひどく疎ましいものになっていきます。
諸葛亮は、表向きは彭羕と平静な態度で付き合っていたものの、内心では良く思っていませんでした。
このため劉備に言上し、彭羕は大きな野心を持っており、おとなしく仕えさせておくのは難しいでしょう、と述べます。
劉備は諸葛亮を敬い、信頼していましたので、彭羕の行状をよく観察するようになりました。
すると諸葛亮の言うとおり、問題のある言行が多かったので、次第に疎んじるようになり、江陽太守に左遷し、身辺から遠ざけることにします。
劉備を罵倒する
彭羕は左遷されたと知ると気分を害し、内心に鬱屈を抱えながら、将軍の馬超に会いに行きました。
馬超は彭羕に「君は才能が抜きん出ているし、主も重用なさっている。
孔明や孝直(法正)と足並みを揃えて活躍するものとばかり思っていたのだが。
州庁から出され、小郡の太守になるのでは、本望を遂げられないことになるのではないか」と言いました。
すると彭羕は、「あの老いぼれは、ぼけてしまって物事の判断がつかなくなっている」と、劉備を罵倒します。
かつて劉璋の悪口を言ったことがありましたが、彭羕は主君に対し、口汚く罵ることをやめられない性格で、およそ他人に仕えるには向いていない人物だったと言えます。
諸葛亮はそのあたりを危惧し、彭羕を用いないように進言したのでしょう。
馬超を煽って逮捕される
彭羕はさらに、「君が外を受け持ち、私が内側を受け持つならば、天下を平定するのは簡単なことなのだが」と言いました。
馬超は曹操に敗れ、流浪の末に蜀に帰順した立場でしたので、自分の境遇には、いつも不安を感じていました。
このため、謀反を勧めるかのような彭羕の言葉に驚愕し、黙ったままで答えませんでした。
そして彭羕が帰ると、詳細にその発言を上表します。
すると彭羕は逮捕され、司直に引き渡されました。
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