諸葛亮に手紙を送る
彭羕は獄中から、諸葛亮に手紙を送りました。
「私は以前、諸侯に仕えたことがあります。
曹操は暴虐で、孫権は無道であり、劉璋は世に暗く、弱い男でした。
ただ主君(劉備)だけが王者の器量をお持ちで、ともに功業をおこし、平和な世を築くことができる方だと思いました。
そのために心を改め、主君にお仕えしたいという志を抱きました。
ちょうど益州においでになったので、私は法考直(法正)を頼りに自分を売り込み、龐統に間を取り持ってもらいました。
そして葭萌において、公(劉備)にお会いすることができたのです。
手のひらを指しながら語り、治世の要務を論じ、覇者や王者について講じ、益州を奪い取る計画を述べました。
すると公もまた、以前から考えていたことを実行すると決められ、大事を成し遂げられたのです。
私は故郷では凡庸な者として扱われ、処罰を受けて苦しんでいました。
しかし、矢が飛びかう風雲の時代に巡りあい、求めてよき主君に出会い、志がかなえられ、名を知られるようにもなりました。
そして平民から抜擢を受けて国士となり、分不相応にも、優れた人物がつくべき地位につくことができました。
主君の、我が子に与えるような手厚い恩義を、誰が私以上に受けたでしょう。
その私が一朝にして、自分を見失って道からはずれ、肉を塩漬けにされ、不忠不義のかどで亡者となることを、自分から求めるでしょうか。
昔の人の言葉に『左手で天下の地図を握り、右手で喉をかき切る愚か者はいない』というものがあります。
ましてや、私は豆と麦の見分けくらいつけることができます。
怨みを抱くようになったのは、自分の力もわきまえず、最初に事業(蜀平定)を主導したのは、私なのだと思い上がっていたからです。
そこに、私を江陽に追いやる話しが進んでいると聞き、主君のお気持ちを理解しないままに、感情を激しくたかぶらせ、酒を浴びるように飲んだあげく、『老いぼれ』という失言をしてしまったのです。
これは私の愚かさと、思慮の足りなさがもたらしたもので、主君は実際のところ、まだ老年ではありません。
その上、功業を立てるのに、そもそも年齢は関係ありません。
西伯(周を興隆させた文王)は、九十才にして、志が衰えてはいませんでした。
私が慈父(劉備)を裏切ったからには、その罪は百度の死にも値します。
ですが、内と外についての話には、誤解があります。
私は孟起(馬超)に北方で手柄を立てさせ、主君と力を合わせ、ともに曹操を討とうと望んだだけです。
どうして他に、邪な志を抱きましょうや。
孟起がこの言葉を上奏したのは間違っていません。
ただその真意を理解しなかったので、聞いた人の心を痛ませてしまったのです。
昔、龐統とともに誓いを立て、足下(諸葛亮)のあとについていき、主君の功業に力を尽くし、古人の名を追って、竹帛(史書)に勲功を記録されたいものだと願っていました。
龐統は不幸にして死に、私は過ちを犯して失敗をしました。
自分からこの境遇に落ちたのですから、誰を恨むこともありません。
足下は、当代の伊尹・呂尚(殷や周の建国を支えた名臣)にあたるお方です。
どうかご主君と計略を立て、大道を完成させてください。
天地はすべて見通され、神々には霊知がありますので、これ以上何を申し上げることがありましょう。
願わくば、足下に私の本心がおわかりいただけますよう。
努力なさり、ご自愛ください」
このように述べ、自分に非があったことを認めつつ、謀反の疑いだけは解こうとしたのでした。
結局は劉備を「老いぼれ」呼ばわりしたことが疑いを呼び、致命的な事態を招いたのですが、まったくもって口は災いの元だと言えます。
彭羕はやがて処刑されました。
時に37才でした。
彭羕評
三国志の著者・陳寿は「彭羕は才能によって抜擢を受けた。
しかしそのふるまいを観察してみると、災いを招いて罰せられたのは、当人の責任だったと言える」と評しています。
龐統や法正といった優れた人物たちに推薦をされたくらいですので、彭羕にも優れた才能はあったのでしょう。
しかし人格に大きな欠点があり、それを抑制することができず、言いたいことを言ったために、身を滅ぼしてしまったのでした。
他にも飲酒が原因で身を滅ぼした蜀臣には劉琰がいますが、今も昔も、お酒が人の心を惑わせ、失敗させてしまうのは変わらないようです。


