稲葉一鉄(良通) 戦乱の世を頑固に生き抜いた一徹者の生涯

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信長に暗殺されそうになる

一鉄と信長の関係は、初めはうまくいっていませんでした。

信長は一鉄がやむなく織田氏に従っただけで、心からは服従していないことを見抜いており、そのうち謀反を起こすのではないかと疑っていました。

信長は一鉄は武勇しか能のない、地元意識の強い田舎侍で、それゆえに征服者である自分に従おうとしないのだろう、と思い込んでいたのです。

このためにある日、一鉄を岐阜城に招き、茶席で暗殺してしまおうと計画します。

一鉄は信長の意図を察しながらも、その席に出向きました。

茶席には同席する侍が3名ほどいたのですが、彼らはいずれも懐に短刀を携えており、信長が合図をしたら、一鉄を刺殺する心構えでいます。

一鉄はそのような、敵意が潜む茶室に入ると、壁に漢詩の書かれた絵画がかかっていることに気がつきました。

同席した侍たちから「まずは挨拶のため、その詩を読み上げてください」と頼まれると、一鉄はすらすらと『送茂侍者そうもじしゃ』という詩を読み上げ、それが意味するところを詳しく解説し、その後で、自分は謀反を起こす気はないとも語りました。

一鉄は幼い頃に寺で学問を学んでいましたので、漢詩を読むことも、意味を解することもできたのです。

信長は隣室で様子をうかがっていたのですが、一鉄が意外にも高い教養を備えており、格調の高い人物であることを知り、誤解していたようだと気がつきました。

信長は茶室に姿を現し、「この席は茶の湯の饗応ではなく、そなたを刺し殺そうとしていたのだ」と正直に話しました。

そして「同席の者たちには懐剣を持たせていたが、これは誤りであった。今日より長く我に仕え、その武勇と知謀を発揮してくれ。今後はそなたを害そうとすることはない」と一鉄に告げました。

信長の言葉を受け、相伴の侍たちが懐から短刀を取り出して見せ、もはや暗殺の意図はないことを示します。

これを聞いた一鉄は信長に平伏し、「死罪を免じられたこと、かたじけなく思います。私も今日、殺されるのだろうと思っており、やむを得ないことかと覚悟をしていました」と述べます。

そして一鉄もまた懐から短刀を取り出し「ならばせめて一人だけでも相打ちにしようと思い、こうして懐剣を用意していました」と信長に告げました。

これを聞いた信長は「潔く、立派な心がけである」と称賛し、以後は一鉄を重く用いるようになりました。

織田信長

【5番目の主君・織田信長】

家康に選ばれる

その後、信長は足利義昭を推戴して京への上洛を果たし、日本の中央部に勢力を築くことに成功します。

この過程で一鉄は各地を転戦し、武功を重ねていきました。

その中でも特に「姉川あねがわの戦い」で活躍をしています。

信長と同盟を結んでいた浅井長政が、朝倉義景に味方するために裏切ったのがきっかけとなり、近江の姉川を戦場として、大規模な決戦が行われたのでした。

信長にとって重要な戦いであったため、同盟を結んでいた徳川家康に援軍を要請しています。

家康は三河みかわ(愛知県東部)から3千の軍勢を率いて姉川に駆けつけ、信長と合流しました。

この時に家康は「敵の強兵がいるところに自分をあてて欲しい」と信長に要請しますが、信長は「既に軍勢の配置は決まっているので、味方の弱いところを支援してほしい」と返答しました。

しかし家康は「未熟者を助けるために、はるばると姉川までやって来たわけではござらぬ。望みが叶わぬのであれば、三河に引き返しましょう」と言い出したので、信長は「では朝倉の軍勢と戦っていただこう」と応じました。

朝倉氏は精強な軍団を擁しており、家康は望み通りに強敵とぶつかることになったのでした。

そして信長は「我が軍から加勢を差し向けよう」と持ちかけますが、家康は「我が国は小さく、軍勢が少ないので、大軍を任されても指揮が行き届かぬでしょう。我が手勢のみで朝倉を抑えるのでけっこうです」と答えました。

しかし信長は重ねて「もしも徳川軍のみに朝倉の大軍を任せては、信長は天下の嘲りを受けることになる。だからわずかであっても、織田の軍勢を引き連れて行ってくれぬか」と要請しました。

このために家康は「ならば稲葉良通(一鉄)をつけてください」と信長に伝えました。

並みいる諸将を抑えて選ばれたわけですので、これは大変な名誉だとして、一鉄は他の武将たちから羨望の目で見られることになりました。

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