稲葉一鉄(良通) 戦乱の世を頑固に生き抜いた一徹者の生涯

スポンサーリンク

土岐頼芸が追放され、斎藤道三が国主になる

1542年になると、美濃の名族・斎藤氏の家督を継いだ道三は、謀反を起こして主君の頼芸を追放し、美濃一国を手に入れます。

この時に一鉄は姉の夫である道三に仕えるようになり、各地の戦いで戦功を立て、軍事に才能を発揮しました。

そしてやがては「西美濃三人衆」の筆頭として認知されるようになります。

これは美濃西部の諸将の中で、特に有力な三人を指した称号です。

他の二人は安藤守就もりしげと氏家直元で、いずれも美濃における優れた武将として評価されました。

道三と義龍が争う

道三は主君を追い出し、その弟を毒殺するなど、強引な手段を用いて美濃を制しましたが、それゆえに、潜在的には美濃の武将たちの反感を買っていたようです。

やがて1556年になると、道三と長男・義龍との関係が悪化し、親子の間で戦いが発生します。

この時に美濃の武将たちは二手に分かれて戦うのですが、義龍が1万7千もの大軍を集めた一方で、道三の元には2千程度しか兵が集まりませんでした。

道三は「義龍は愚鈍である」として侮っていたのですが、この戦いを通してその認識を改めています。

義龍の指揮能力もまた優れており、道三を圧倒して討ち取り、新たに美濃の国主になりました。

一鉄は甥の義龍に味方して勝利に貢献し、家老となって稲葉氏の勢力を保っています。

齋藤義龍

【3番目の主君・齋藤義龍】

織田信長の侵攻を受ける

このようにして、美濃では長く国主の地位をめぐる争いが続いていたのですが、義龍が制しても国情は鎮まりませんでした。

義龍は有能な人物だったのですが、1561年に病のために急死してしまったのです。

そしてまだ13才の嫡子・龍興たつおきが後を継ぎますが、龍興は祖父や父に比べると才覚に乏しく、尾張おわり(愛知県)から侵攻してくる織田信長の勢いを押しとどめることができませんでした。

評判の悪い人物を重用して家臣たちのひんしゅくを買ったり、戦いで重臣を次々と失うなどして、斎藤氏の勢力は衰退していきます。

龍興は北近江の浅井長政と同盟を結ぼうと試みるのですが、信長に先手を打たれ、むしろ浅井氏は敵に回ってしまいました。

やがてが美濃の東部から中部を信長に奪われ、斎藤氏の勢力圏は、残る西美濃だけとなってしまいます。

信長に寝返りを打つ

こうして劣勢が続く中、1567年になると、一鉄ら西美濃三人衆たちも龍興の将来を見限り、ついに信長に内応します。

これ以前に三人衆のひとり、安藤守就は竹中半兵衛とともに斎藤氏の本拠・稲葉山城を占拠するという事件を起こしており、すでに龍興との関係はかなり悪化していました。

龍興には人望も才覚もなく、それゆえに人材の流出が続き、勢力を維持するのは不可能となっていきました。

そのような状況下で、三人衆の寝返りによってとどめを刺され、稲葉山城を信長に攻め落とされ、美濃から追放されています。

この結果、一鉄は52才にして、新たに征服者である信長に仕える事になったのでした。

一鉄からすれば、龍興もまた血縁者だったのですが、稲葉氏の存続のために見捨てるしかなくなったのでしょう。

一鉄は信長に仕えるのは不本意だと思っていたようですが、むしろこれがきっかけとなって、世に名を知られる存在になっていきます。

【次のページに続く▼】