稲葉一鉄(良通) 戦乱の世を頑固に生き抜いた一徹者の生涯

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本能寺の変への影響

こうして一鉄は軍事・外交といった分野で活躍しましたが、やがて信長に対し、ある要求をするようになりました。

一鉄の家臣に斎藤利三としみつという者がおり、一鉄は彼を気に入って娘婿にしていました。

しかし、この利三はやがて一鉄の元を去り、信長の重臣・明智光秀に仕えるようになります。

一鉄は利三に去られたことに腹を立て、信長を通して、光秀に対して「利三を解雇するように」と要求しました。

しかし光秀は利三の能力を高く評価し、重用しており、明智家に欠かせない人材だとして手放そうとしません。

一鉄はその後も執拗に信長に要求を続け、信長も光秀にそれを伝えるのですが、光秀もまた頑固にこれを拒み続けます。

たまりかねた信長は、とうとう光秀に対し、利三を切腹させるようにと命令します。

これが1582年5月27日のことで、本能寺の変が発生する5日前のことでした。

信長は光秀が自分の命令をきかず、いつまでも利三を用い続けることに腹を立てており、ついには光秀の頭を殴りつけたこともありました。

このために両者の関係はひどく悪化しており、つまり、一鉄の行動が本能寺の変を引き起こした可能性もあるのです。

(本能寺の変の原因には諸説あり、いまだ定かにはなっていません。これも一つの説として語られています)

美濃の独立を図る

そして6月2日に信長が本能寺の変で光秀に討たれると、一鉄は混乱に乗じて美濃の独立を果たそうとします。

本能寺の変が発生した原因を作ったのは一鉄だったかも知れないのですが、一鉄がそれについてどう思ったかは伝わっていません。

けれど、すぐに美濃の独立を目指して動いていることから、さほどの感慨は持たなかったのだと思われます。

あくまで信長が強者だから従っていただけで、初めに信長が疑っていた通り、心から従う気はなかったのでしょう。

一鉄は国人衆たちに呼びかけて勢力を集め、甥の斎藤利堯としたか(道三の四男)を美濃の国主にしようと画策します。

そして信長の死によって分裂し、敵対の姿勢を見せた美濃の諸将を討伐し、自身の勢力の拡大も計りました。

この一鉄の動きは、秀吉がすばやく光秀を討って混乱を鎮めたため、実ることはありませんでした。

しかし一鉄の本当の願いが何だったのかが、はっきりと示された事態だと言えます。

土岐氏の血を受け、斎藤氏とも血縁関係にあることは既に述べていますが、一鉄はそれゆえに、美濃に本来の国主を立て、独立を果たそうとする気持ちが強かったのでしょう。

それでありながら、一鉄は現実と折り合いをつけるだけの柔軟さも備えており、このために行動や性格が複雑になったのだと考えられます。

旧主・土岐頼芸を保護する

斎藤氏の復興を図った一方で、一鉄は旧主・土岐頼芸を保護してもいます。

土岐頼芸は斎藤道三に美濃を追放された後、各地をさまよい、最終的に甲斐の武田氏に保護され、そこで細々と生活をしていました。

そして信長が武田勝頼を滅ぼした際に身柄が発見されたのですが、それを知った一鉄が信長に働きかけ、美濃に帰参させています。

頼芸は80才を超え、既に失明しており、余命いくばくもなかったのですが、一鉄のはからいによって、最後の半年間を安らかに過ごすことができたのでした。

このようにして一鉄は美濃の国主や、その一族の者たちを大事にする姿勢を見せています。

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