馬超と戦う
馬超は211年に、曹操に敗れて涼州に逃亡していましたが、やがて異民族の助けを得て再起します。
そして涼州刺史(長官)の韋康を殺害して涼州を乗っ取ろうとしました。
これに氐族などが呼応して大軍となったため、夏侯淵は討伐しようとしたものの、敗れていったん軍を引いています。
馬超を追い出す
やがて韋康の部下たちが、策略によって馬超の本拠を奪い、漢中に追い出します。
しかし馬超は、そこで漢中の支配者である張魯に兵を借り、涼州に舞い戻ってきました。
このために夏侯淵は涼州から救援要請を受けましたが、長安の諸将は「曹公(曹操)の指示を待ってから動くべきでは」と主張し、出撃しようとはしませんでした。
これに対して夏侯淵は、「公は鄴においでであり、往復で四千里の距離がある。返事をいただいたころには、涼州の諸将は敗北しているに違いない。それでは危急を救うことはできぬ」と言って、すぐに出陣することを決めました。
夏侯淵は張郃に五千の兵を与えて急行させ、自分は本軍と輸送隊の指揮にあたりました。
張郃の急襲を受けた馬超は、まだ準備を整えられていなかったため、戦わずして逃走しました。
これ以後、馬超は勢威が振るわなくなり、涼州に侵入することもできなくなります。
こうして夏侯淵は的確な判断によって、馬超を涼州から完全に追い出したのでした。
韓遂と異民族と戦う
この時、馬超と結んで反乱を起こしていた韓遂が、近くに駐屯していました。
夏侯淵が韓遂を攻撃しようとすると、彼は逃亡したので、食糧を奪ってから追撃をかけます。
この時に諸将の意見は、「さらに韓遂を追撃すべきだ」というものと、「彼に協力している羌族(異民族)を先に討伐すべきだ」というものに別れました。
夏侯淵は韓遂の軍勢は精鋭で、城は堅固であるため、攻め落とすのは難しいと考えました。
なので先に羌族を攻撃することにします。
韓遂の軍勢には羌族が多く参加しているため、彼らを攻撃すれば、韓遂は救援のために堅固な城塞から出撃せざるを得なくなるだろう、というのが夏侯淵の読みでした。
もしも救援しなければ、韓遂の元にいる羌族たちは離脱しますので、どちらにしても有利になる、とも夏侯淵は考えていました。
このように、夏侯淵は突撃をしているばかりではなく、作戦を深く考えられる能力も持っていたのです。
韓遂を撃破する
夏侯淵は軽装の騎兵と歩兵のみを連れて長距離を移動し、羌族の屯営を攻撃して打ち破りました。
そして多くの羌族を斬り殺したり捕虜にすると、読み通りに韓遂が救援のために出撃してきます。
韓遂軍は大軍だったので、諸将はこれを怖れ、「陣営を築き、塹壕を掘って持久戦を行うべきではないでしょうか」と主張しました。
すると夏侯淵は「われわれは千里のかなたから転戦してきている。ここで持久戦を行えば兵士たちは疲労困憊し、持ちこたえられなくなる。敵は多数と言えど、討ちやぶれぬ相手ではないぞ」と言い切ります。
そして味方を励まして韓遂軍に攻撃をしかけると、見事に撃破することができました。
この戦勝によって氐族を降伏させ、韓遂と異民族をともに制しています。
この働きは高く評価され、夏侯淵は仮節を与えられました。
(仮節は独自の判断で、軍令違反者を処罰できる権限です。将軍としての格が上がったことを意味します)
涼州を平定する
涼州には他にも宋建という者が、混乱につけこんで自立し、勝手に河首平漢王を名のっていました。
夏侯淵は曹操に命じられて討伐に向かうと、一か月あまりで宋建の拠点を陥落させ、宋建と臣下たちを斬り捨て、平定に成功しています。
そして張郃を別働隊として派遣し、黄河以西にいた羌族をすべて降伏させました。
宋建は三十年にも渡って自立していましたが、夏侯淵はそれをただ一度の戦いで滅亡させたため、曹操から「向かうところ敵なし」とまで称賛されています。
曹操は、孔子が「わしは弟子の顔回に及ばない」と述べた故事を持ち出して、夏侯淵は自分ができないことをした、と認めています。
この功績によって、216年に封邑が三百戸加増され、合計で八百戸となりました。
漢中に駐屯する
その後、夏侯淵は長安に帰還すると、武都の氐・羌族を討伐し、十万石以上の食糧を没収するなどしました。
このために夏侯淵は彼らから大変に恐れられるようになり、曹操は羌族を引見した際には、いつも夏侯淵の名前を出して、脅しの材料に使ったと言います。
やがて涼州の南にある漢中が平定されると、夏侯淵は征西将軍に昇進し、漢中の守備につきました。
そして南から攻め上がってくる劉備と対戦することになります。
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