夏侯淵 騎兵を率いて活躍するも、黄忠に討たれた武将の生涯

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劉備と対峙する

劉備は214年に益州の州都である成都を手に入れると、益州全土の支配を確立するべく、行動を開始します。

そして益州北部の漢中を曹操から奪取するために、218年に陽平関に陣をしきました。

夏侯淵はこれを防ぐべく出陣し、定軍山でにらみ合いとなります。

この対陣は長引き、決着がついたのは翌年でした。

定軍山の戦い

219年になると、劉備は夏侯淵に攻めかかります。

夜になると、劉備軍は夏侯淵の陣営の柵に火をつけ、奇襲攻撃を行いました。

いつもは自分から急襲をしかける夏侯淵が、受け手に回ったことになります。

夏侯淵は副将の張郃に陣の東を守らせ、自身は南を担当しました。

すると劉備軍は張郃に対して猛攻をしかけ、これを打ち破ります。

張郃が危機に陥ったと知った夏侯淵は、自軍の半分を割いて救援に向かわせました。

夏侯淵はここでも、他人(部下)を大事にする性分を見せたのでした。

すると、それを見た劉備軍の参謀の法正が、黄忠に突撃をかけるように命じます。

黄忠は劉備軍でも随一と言えるほどの猛将で、夏侯淵が率いる精鋭にもひるまず、果敢に攻撃をしかけてきました。

夏侯淵は自ら最前線にふみとどまり、この攻勢を防ごうと奮闘しますが、ついに黄忠に敗れ、ただ一度の戦いによって、討ち取られてしまいました。

こうして夏侯淵は戦死し、漢中は劉備の手に落ちています。

曹操の忠告

これより以前、曹操は夏侯淵の戦いぶりを危ぶんで、次のように忠告をしていました。

「指揮官は勇気だけを頼みにするのではなく、時には臆病にならなければならない。勇気を基本にしながら、行動に移す時には知略を用いよ。さもなくば、真に強い将軍にはなれぬぞ」

夏侯淵は勇敢で、自ら兵を率いて突撃し、それによって多くの戦勝を得ましたが、それは騎馬民族を相手にしたときには、有効な戦術でした。

しかし砦を構えて敵と駆け引きをするのには適した戦い方ではなく、このために劉備と法正に翻弄され、あえなく敗れたのだと思われます。

夏侯淵は騎兵を率い、平原で戦ってこそ強い武将で、守勢には向いていなかったのでしょう。

そしてそこから変化し、適応することができなかったので、戦死することになったのでした。

子孫

夏侯淵の妻は曹操の妻の妹で、このこともあって、夏侯淵の死後、子孫は厚遇されています。

長男の夏候こうが後を継ぎ、曹操の弟の娘と結婚しました。

そして父の爵位を継いだ後、安寧あんねい亭候に国替えとなっています。

次男の夏侯覇は右将軍になりましたが、魏の政争によって失脚し、蜀に亡命するという、数奇な運命をたどりました。

残された子どもは、通常であれば処刑されるところでしたが、夏侯淵の勲功が考慮され、楽浪らくろう郡(朝鮮半島)への追放処分ですまされています。

その他の兄弟たちは、刺史や太守の地位につくなど、それぞれに出世しています。

夏侯淵評

三国志の著者・陳寿は「夏候氏と曹氏は代々姻戚関係にあった。それゆえ、夏侯淵らはいずれも皇室の一族として、高官となって重んじられ、君主を補佐して勲功を立てた」と評しています。

夏侯淵には限界があったものの、優れた長所を備えた武将だったのも確かです。

彼が敗死したのは、曹操が適さない任務を与えたことも影響しています。

しかし涼州や異民族の平定が終わった以上、次は益州の攻略を任されるのが妥当な流れであり、夏侯淵がそれに適応しきれなかったのも問題ではありました。

とは言え、ひとりの人間に多様な能力を備えることを求めるのは難しく、曹操の要求はやや過大だったのではないかとも思われます。