黒田官兵衛はどうして関が原の戦いにおける長政の活躍を苦々しく思ったのか?

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官兵衛と長政

関ヶ原の戦いの始末がついたところで長政が帰国し、官兵衛はそれを出迎えます。

その時、領地を大幅に加増された長政は「家康は自分の手を3度もとって感謝してくれました」と官兵衛にうれしそうに報告します。

これを聞いた官兵衛はどちらの手を家康が取ったかをたずね、長政が「右手です」と答えると、「その時左手は何をしていた」と長政に言ったといいます。

左手でどうして家康を刺さなかったのか、と示唆したとも言われますが、事実だとしたらずいぶんきわどい話です。

官兵衛からすれば、息子の長政が活躍したことによって自分の夢が絶たれてしまったわけで、複雑な心境であったことでしょう。

また、結局は黒田家は人を補佐し、助けることで繁栄していく家なのかと、運命のように感じたかもしれません。

優秀な補佐役としての黒田家

黒田家は官兵衛の祖父の代から播磨(兵庫県)の小大名である小寺家の家老となり、その運営を補佐していました。

この時代に黒田家の基盤が築かれます。

やがて官兵衛の代になると織田家の勢力が伸び、播磨にまで影響を及ぼすにいたり、官兵衛は織田家の中国方面の司令官であった羽柴秀吉の下について、織田家のために働きます。

信長が倒れ、秀吉が天下を取ると17万石の大名になりました。

長政の代には家康の覇権の確立に貢献することで、ついに52万石という大大名にまで発展します。

織田・豊臣・徳川と、各時代の覇権を握った勢力に仕え、貢献することで順調に成長した大名家だったわけで、補佐役としては最も活躍した一族だった、と言えるかもしれません。

黒田家以上の大名家は、織田家の家臣として活躍し、秀吉とも親しかった前田利家の前田家100万石、鎌倉時代から薩摩を支配していた島津家77万石、同じく陸奥を支配していた伊達家62万石、など数えるほどしか存在していないことを思うと、的確に仕える相手を選び、活躍することの価値が伺い知れます。

しかしながら、運に恵まれれば天下を取れるかもしれないほどの才能を持って生まれついてしまった官兵衛からすると、生まれた環境の限界と、それに順応しきっている息子の長政の存在に、どこか苦いものを感じたかもしれません。

ちなみに長政は関ヶ原の戦功によって2万もの軍勢を率いるほどの実力を得たわけですが、一度も自分の思うとおりにその軍を指揮して戦う機会が得られなかったことを、悔しく思っていたそうです。

戦後の官兵衛

関ヶ原の戦いで長政は活躍しましたが、本人の思惑はともあれ、九州の大半を東軍の支配下においた官兵衛の活躍もまた特筆すべきものでした。

官兵衛にも長政とは別に恩賞があるべきではないか、という声が徳川家の中でもあがりますが、官兵衛は拘泥せずに辞退しています。

天下取りの夢はついえ、いまさらいくらかの領地をもらっても価値はない、と思っていたのかもしれません。

戦後はしばらく京都に住んでいましたが、やがて長政の領地に戻り、小さな屋敷を建ててもらい、そこで近所の子どもたちを遊ばせたりしながら暮らしていたということです。

官兵衛は出家してからは如水、すなわち「水の如し」と名のっていたそうです。

この名前からは大きな才能を持ち合わせ、それを表現する欲求を持っていながらも、一方では世の騒がしさに煩わされたくもない、とも思っていそうな、官兵衛のあっさりとした、静謐な心境の一面がうかがい知れます。

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