北を従わせる
この南征の後、桓公は斉の北にある山戎という国を討伐しました。
すると管仲は、さらにその北にある燕に使者を送り、軍事力で圧迫を加えつつ、建国の祖である召公の政治を復活させるようにと要請し、内政に干渉しました。
これに燕が従ったことから、北方もまた斉の影響下に入っています。
このようにして、管仲は桓公が軍勢を動かした機を捉え、その周辺にある国をも斉に従わせていったのでした。
軍を動かしたのは桓公の私的な欲求によるものでしたが、その機会を拡大させることで、効率よく斉が覇者となる道を開いていったのです。
管仲は世の人々が作り出す流れを読み取り、それを増幅させることで自然と物事が実るようにと、働きかけるのを得意としていました。
それゆえに斉を強国にし、桓公を覇者の地位につけることもできたのです。
西を制する
さて、こうして斉は南と北を制し、残る斉に従わない地域は西方だけとなります。
斉の西には魯という国がありましたが、斉に比べると小国でした。
桓公はこのため、またも軍を興して魯に攻め込み、いくつかの城を奪い取ります。
しかしながら、魯と会合を行った際に、桓公は魯の将軍・曹沫に刃物を突きつけられて脅され、奪った城を返還すると約束させられてしまいます。
桓公は当然のことながら、これを不快に思って条約を破棄しようとしました。
しかし管仲は、「むしろこれを実行すれば、西方の諸侯は斉に従うようになるでしょう」と桓公に進言します。
管仲の策はこれまでにことごとく敵中していましたので、桓公は彼の言葉に従って、渋々ながらも魯から奪った土地を返還しました。
すると諸侯は、桓公が小国と交わした約束を律儀に守ったことを高く評価し、斉は横暴なふるまいはしないのだろう、と信頼するようになります。
この結果、以後は外交を用いるだけで、諸侯は斉に従うようになりました。
「人に与えるのは、得るための手段である」と言いますが、この管仲の策はまさに人間社会の真実をついているとして、高く評価されました。
富裕の身となり、やがて死す
管仲はその後、自らも財を蓄え、富裕の身となりました。
そして主君と変わらぬほどの贅沢な生活をし、三帰の壺や反玷という、諸侯でなければ用いることができない財宝をも所有するようになりました。
しかし、管仲は斉を最強の国家に成長させるという実績を上げていましたので、国民から批判の声は巻き起こらず、相応のことだと見なされています。
また、管仲は周王調から、諸侯でなければ得られない「上卿」という地位を与えられそうになったことがあったのですが、これを断っており、桓公の地位を脅かそうとしたことはありませんでした。
そのように叛意がなかったところも、管仲が名声を極めながらも主君から疎んぜられず、生涯を全うできたゆえんでしょう。
やがて管仲は紀元前645年に亡くなりましたが、その後も彼の構築した施政の方針は引き継がれ、いくらかの変動はあったものの、斉は強国の地位を保ち続けています。
才能は人に知られることで発揮される
こうして見てきた通り、管仲は若い頃は様々な失敗をしており、見損なわれてもおかしくなかったのですが、鮑叔は一貫して彼の才能を認め続け、評価を変えることはありませんでした。
そして自身が宰相になる機会を得たにもかかわらず、それを管仲に譲ることで、斉に繁栄をもたらしています。
管仲が傑物だったのは確かですが、鮑叔もまた尋常な人物ではありませんでした。
もしも鮑叔がいなければ、管仲は敗者の陣営に与した者として、一生の間浮かばれず、才能を発揮できずに終わった可能性が高いです。
才能はあっても地位や資金を持たない者が世に出るには、よき友を得て、才能を認めてもらうことが必要だ、ということなのかもしれません。
管仲は三国志の諸葛亮とも並び称されており、優れた政治家の代表的な存在として、後世から認知されています。


