富国強兵
管仲は鮑叔の推薦によって斉の宰相になると、まず特産品である塩の増産を計り、漁業も盛んにしていきました。
斉は中国大陸の東端にあり、海に面しているという地理的な特徴があったので、管仲はそれを活用したのです。
特に塩は、かつての中国においては大変な商品価値があり、長らく富をもたらす源泉として機能しました。
三国志の関羽は塩の密売人をしていた、という話がありますが、塩は危険をおかして密売をするほどにうまみのあった商品だった、ということが現されています。
管仲は農村の整備にも取り組み、生産力を高めた上で、陸海の流通網を整備し、商業活動を盛んにする政策を実施します。
この結果、各地から商人が集まって交易が盛んに行われるようになり、斉の財政は豊かになっていきました。
こうして管仲は国を富まし、それから兵を強くし、斉の実力を高めていきます。
いわゆる「富国強兵」は、管仲の事跡が元になって生まれた言葉です。
衣食足りて礼節を知る
管仲は民の生活を豊かにしてから、礼節や規律を守るようにと教え、治安が改善されるように仕向けていきました。
管仲はこの施策について、以下のように述べています。
「米倉が充実して、今日と明日の食べ物の心配をしなくなった時、初めて民は礼節を知る。衣食が十分にあって生活に不自由がなくなった時、民は初めて栄誉と恥辱を知る」
「衣食足りて礼節を知る」という言葉は、管仲が発したものです。
管仲自身も、若い頃は貧しい境遇にあって苦労をしていましたが、その際には礼節を守る余裕がなく、鮑叔を騙したりもしていました。
そうせずにすむようになるには、生活を豊かにしなければならない、という実体験から、「衣食足りて礼節を知る」の言葉が発せられたのだと思われます。
管仲は民に対して五戸ごとに一つの組を作り、連帯責任を負わせる制度を作りました。
そして相互にふるまいに注意を払わせることで、規律が自ずと守られるようにしたのです。
これは日本では「五人組」と言い、豊臣秀吉や徳川家康が取り入れた制度でもあります。
また、管仲は「民が望むものを与え、否定するものは取り除いていった」と言われており、民心に寄り添うことを重視し、決して無理を押しつけることはありませんでした。
綱紀を引き締める
こうして民を治める一方で、管仲は官僚たちにも厳しく規律を守ることを求め、常に綱紀を引き締めています。
「国家を維持するには、それを担う機関が緊張感を保つことが大事で、これを緩めれば、国家はやがて滅亡することになる」という言葉を残しています。
国を強くして民を治め、それを維持するために必要な施策は、管仲の統治や発言から読み取ることができ、それはどれほど時代が変わっても通用するものだと言えるでしょう。
蔡と楚を討つ
管仲はこうして斉を強国にすると、機会を捉えては諸侯を斉に従わせて行きました。
ある時、主君の桓公が夫人の蔡姫と、船遊びをしていたことがありました。

【桓公の肖像画】
この時に姫はたわむれに船を揺さぶったのですが、桓公がこれを止めても言うことを聞かなかったので、やがて桓公は怒り、姫を実家の蔡という国に戻してしまいます。
まだ離婚まではしていなかったのですが、やがて蔡はこの姫を他の貴族の家に嫁がせてしまいました。
これによって面目を潰された桓公は大いに怒り、南に向かって兵を挙げ、蔡に攻め込んでこれを討伐します。
ここまではさしたる話でもないのですが、管仲はこの機会を活用し、蔡のさらに南に位置し、強勢を誇る楚をも討ってしまおうと考え、兵をさらに進軍させませました。
そして楚にも勝利すると、楚が周王朝に対し、包芽(儀式に用いる植物の芽)を献上する義務を怠っていることを責め、斉の下位に置くことに成功します。
こうして蔡と楚を一度に討ってしまうことで、大陸の南方は斉の影響下に入りました。

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