宦官とは 蔡倫・曹騰・十常侍について

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宦官かんがんは中国などに存在していた、去勢された上で、宮殿に仕える者たちのことを言います。

もともとは去勢されているとは限らなかったのですが、後漢以降は去勢された者だけが宦官に就任したため、「宦官=去勢された者」と認識されるようになっています。

中国に限らず、朝鮮やベトナムなどの東アジア、古代ギリシャやローマ・イスラム圏など、幅広い地域に存在していました。

基本的には、皇帝の身の回りの世話をする係でしたが、それゆえに皇帝や皇太后(皇帝の母親)の手足となって働き、権力を握る者も現れました。

この文章では、後漢における宦官の地位の高まりと、三国志につながる流れを書いています。

蔡倫と中常侍

後漢の宦官の中で著名な人物には、蔡倫さいりんがいます。


【蔡倫の肖像】

蔡倫は紙の製法を確立したことで知られていますが、他にも兵器の開発にもたずさわっており、技術者として活躍しました。

清廉な性格だったので、やがて和帝(在位 88 – 106年)の時代に中常侍ちゅうじょうじに取り立てられます。

中常侍は常に皇帝の側にいて、臣下たちとの取り次ぎを行う役目でした。

官僚が就任する侍中と似ていますが、彼らは宮中への出入りを厳しく規制されていました。

これは皇帝の安全を確保し、後宮に皇帝以外の男性が出入りすることを禁じるためでもあります。

しかし去勢されている中常侍には、何ら出入りに制約がなかったので、より皇帝に近い立場につくことができました。

このため、皇帝から深く信頼される宦官も現れ、権力者に登り詰めることもあったのでした。

和帝は幼くして即位したため、継母のとう太后が政治を担当し、これを蔡倫が補佐しました。

そして和帝は同じく宦官の鄭衆ていしゅうが補佐しています。

宮中にいる皇太后にとっても、宦官は普段から接している相手ですので、権力を掌握する際には、彼らを用いるのが都合がよかったのでした。

後漢における宦官の地位の高まりは、このような、皇帝の母が実権を握る構造から始まっています。

大将軍と宦官

一方で、竇太后の兄の竇憲とうけんは大将軍となり、軍事と官僚機構の頂点に立ちました。

こうした皇帝の母親の親族勢力を、外戚がいせきと呼びます。

竇憲は太后に協力し、官人たちの動きを制御しつつ、ともに政治を行いました。

この時代の後漢は、皇帝、皇太后、宦官、大将軍の四者の均衡によって成り立ち、それなりに治世は安定していました。

しかし、やがて竇憲がさらなる権力を求め、皇帝をおびやかしたことで、この均衡が崩れ、争いが発生します。

権力を持つ者はさらに権力を、と貪欲になることが多く、均衡が保たれる時期と、崩れる時期を交互に繰り返すことが多くなっています。

和帝は側近の宦官である鄭衆に命じて竇憲を誅殺させ、竇氏一族を政界から追放しました。

そして鄭衆は和帝から重用され、爵位をも賜っています。

こうして、宦官が権力の中枢に関わる前例が発生しました。

鄭衆が和帝に信頼されたのは、常に身辺にいるために機密を守りやすく、策謀を進行させやすいのと、鄭衆が誠実な人格の持ち主だったからでした。

一方で蔡倫は、これ以前に竇氏の意を受けて、後に安帝となる皇族の祖母を陥れたことがありました。

これが原因となって、蔡倫は自害を命じられています。

蔡倫は竇太后に仕えていたために、その没落とともに、彼もまた立場を失ったのでした。

このように、権力の中枢に近づくことで、宦官たちもまた、命がけの闘争に関わるようになっていきます。

曹騰

ついで宦官の中で目立つ存在となったのは、曹騰そうとうでした。

彼は曹操の義理の祖父ということで、名を知られています。

順帝(在位 125 – 144年)や桓帝(在位 146 – 167年)に信頼され、側近として中常侍に就任し、やがて大長秋だいちょうしゅうに昇進しました。

大長秋は皇后府を取り仕切る、宦官の最高位です。

曹騰は権力を掌握したりょう太后に仕えつつ、優れた人材を朝廷に推挙し、官僚の質を高めることに貢献しました。

これらの人材は大将軍の下に入りますので、この地位にあった梁冀りょうき(梁太后の兄)を満足させることにつながりました。

曹騰が推挙した中には、三公という最高位の大臣にまで昇進する者もおり、彼らが曹騰に推挙感謝した記録が残っています。

そして曹騰は梁太后にも信頼されていましたので、皇帝、皇太后、宦官、大将軍の四者の均衡を作り出すことに寄与しました。

このように、曹騰は当時の朝廷において、統治を安定させるための大事な役割を担っていたのです。

しかしこのころが、後漢が勢威を保つことができた、最後の時期となっています。

混乱が始まる

この均衡が崩れたのは、大将軍の梁冀がより強い権力を欲したことに始まります。

彼は桓帝をも押さえ込んで権力を掌握しようとしますが、これに桓帝が反発し、ついに梁冀を誅殺することを決意しました。

これを実行したのが単超たんちょう左棺さかんら五名の宦官たちで、彼らは梁冀の殺害に成功します。

そして桓帝から爵位を与えられ、後漢は宦官が支配する国になっていきました。

しかし彼らは鄭衆とは違って専横をほしいままにし、批判する官僚たちを排除し始めます。

そして166年に「党錮とうこの禁」という弾圧事件が起こり、主だった官僚たちは逮捕され、終身禁固の処分を受けました。

これによって、宦官と官僚の対立は決定的となり、後漢の分裂が始まります。

【次のページに続く▼】