黄忠 老いてますます盛んと言われた猛将、「老黄忠」の生涯

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諸葛亮が危惧する

この時に諸葛亮しょかつりょうが、劉備軍の内部でもめごとが起きないかと心配し、劉備に進言をしました。

「黄忠の名声や人望は、関羽や馬超とは同列ではありません。

それを今ただちに、同列の位につかせようとされています。

馬超や張飛は近くにいて、自分の目で彼の手柄を見ていますので、異論はないでしょうが、関羽は荊州にいますので、遠くからこのことを知ると、喜ばないでしょう。

よろしいことだとは言えません」

劉備はこれを聞いても黄忠に地位を与えることはやめず、「私が自分で関羽に説明しよう」と言いました。

こうして黄忠は後将軍となり、関内候かんだいこうの爵位も与えられます。

黄忠は劉備に仕えて十年ほどで、劉備軍の最高位にまで登り詰めたのでした。

なお、関羽は諸葛亮が危惧したとおり、黄忠と同列に扱われたことを憤って、前将軍に就任することを拒否しています。

しかし、劉備が送った費詩ひしに説得され、考えを改め、これを受け入れました。

この時に関羽が「絶対に老兵と同列にはならぬぞ!」と言って、一度は拒絶していますので、黄忠はこの時点で、相当に老齢だったことがわかります。

翌年逝去する

黄忠はこうして、老いてから大いに活躍し、高い地位を得ましたが、その翌220年に逝去しています。

劉備は彼に、剛候のおくりなを追贈しました。

子の黄じょが早世していたため、後継者はおらず、その家系は絶えてしまっています。

黄忠評

三国志の著者・陳寿は「黄忠・趙雲ちょううんがその勇猛果敢さによって、ともに優れた武臣となったのは、灌嬰かんえいとう公(夏侯えい)のともがらであろうか」と評しています。

灌嬰・滕公はいずれも、漢の高祖・劉ほうに仕えて活躍した武人です。

黄忠は武に傑出していたために、このような評価となりました。

ちなみに夏侯嬰は、黄忠が討ち取った夏侯淵の先祖だとされています。

蜀は歴史の記録官を置かなかったため、全体的に人物の記録が乏しいのですが、黄忠はその中でも、特に少なくなっています。

このため、活躍と地位の割にはその人柄を伝える逸話などが残っておらず、史書からわかることが、ごく限られています。

黄忠は、劉備が躍進する時期に猛将として登場し、大活躍しましたが、役目を果たすとすぐに世を去ったあたり、まるで彗星のような人物だった、という印象を受けます。

三国志演義での描写

このように、史実のエピソードが極端に少ないため、三国志演義では、様々な挿話が追加されています。

まず、劉備軍から長沙を守った際に、関羽と互角に一騎打ちを行い、弓の名手としての腕前を披露します。

登場時にすでに六十才だったとされ、老将のイメージが強調されています。

そして益州に入ってからは、同じく老将の厳顔げんがんと一緒になって活躍し、「老いてなおますます盛んな人物」として描かれています。

最後には、劉備が関羽の復讐のために荊州に攻めこんだ、夷陵いりょうの戦いにも登場しました。

(実際には、この二年前に死去しています)

そこで関羽の息子の関こうらに、老いぼれとして軽んじられたため、奮起して呉軍に斬りこみ、活躍します。

しかし、やがて矢を射かけられて戦死した、という筋書きになっています。

演義の作者は黄忠を目立たせるため、このようなな工夫をこらしたのでした。

この結果、黄忠は現代においても元気な老人の象徴として扱われ、「老黄忠」と呼ばれて親しまれています。