曹仁の誘いを断る
許褚は慎み深く、法を遵守し、質朴な性格の持ち主でした。
荊州の守備についていた曹仁が、あるとき都に帰還し、魏王となった曹操に面会しようとしたことがありました。
そして曹操がまだ宮殿に入らないうちに、外でたまたま許褚と出くわします。
曹仁は許褚を呼び止めて個人的に語り合おうとしましたが、許褚は「王(曹操)は間もなくお出ましになりましょう」と言って、曹仁の誘いを断り、さっさと宮殿に入ってしまいました。
曹仁はこのために、許褚に密かに怨みを抱くようになったので、「征南将軍(曹仁)は王のご一族の重臣です。
それがへりくだって呼びかけられたのに、どうして君はそれを断ったのですか」ととがめる者がいました。
すると許褚はこう答えました。
「あの方はご親族の重臣ではありますが、あくまで都の外にいて、軍勢を率いているお方です。
私は朝廷の臣下ですから、あの方とは大勢の中で一緒に話をすれば、それで十分です。
個人的な付き合いを持つ必要はありません」
曹操の身近に仕える者としては、都の外で軍勢を率いている将軍と、個人的に親しくするのはよろしくないと、許褚は判断していたのでした。
そういった者が将軍と結びついて謀反を起こせば大事になりますので、相手が曹操の親族と言えど、万が一にも疑われることを避けたのです。
曹操は許褚の慎み深さを知って、ますます彼を愛するようになり、中堅将軍に昇進させました。
このように、許褚は一貫して曹操への高い忠誠心を示しています。
おそらく許褚は、誰かに忠実に仕えることに、喜びと精神の安定を見いだす種類の人物だったのでしょう。
曹丕にも親しまれる
やがて220年に曹操が亡くなると、許褚は大変に悲しみ、号泣して血を吐きました。
後継者の曹丕が魏の帝位につくと、万歳亭候に爵位が上がり、武衛将軍に昇進します。
そして曹丕の身辺を守る近衛兵の指揮を任され、側近として親しまれました。
このように、許褚は曹操・曹丕親子のどちらからも信頼され、重用されたのでした。
むかしの部下たちも出世する
ところで、むかし許褚とともに曹操に仕えて虎士になった者たちは、いずれも優れた武人だったので、曹操は彼らを将校に任命していました。
その後、将軍となって列侯に取り立てられた者は数十人もおり、都尉や校尉(部隊長)になった者は百人以上でした。
このように、許褚とともに曹操に仕えた者たちは粒ぞろいの精鋭で、曹操軍を支える重要な戦力に育ったのでした。
そういった意味でも、許褚の存在は曹氏におおいに貢献したのでした。
死去する
許褚は曹丕の子の曹叡にも仕え、牟郷候に昇進しました。
領邑は七百戸となり、子にも関内候の爵位を授かっています。
こうして地位を高め続けましたが、やがて許褚は逝去し、壮候と諡されました。
子の許儀が後を継ぎましたが、蜀の征伐に参加した際に、鐘会によって殺害されてしまいます。
このため、その子の許綜が後を継ぎ、許褚の家系が継承されています。
許褚評
三国志の著者・陳寿は許褚を典韋と並べて評しています。
「許褚と典韋は曹操の左右で武勇を発揮した。漢の樊噲に当たると言える」
樊噲は主君の劉邦が、鴻門の会で項羽らに殺害されそうになった時に、その危機を救ったことで知られています。
許褚もまた、曹操の危機を何度も救っており、それによって歴史に名を残すことになりました。
単に強いだけでなく、主君に忠実に仕え、献身的に尽くしたからこそ、際立つ存在になったのだと言えます。
そういった人材を見いだし、重用したことが、曹操軍の強さに結びついているのでしょう。


