馬超の襲撃から曹操を守る
その後、許褚は袁紹の子・袁尚との戦いの際に戦功を立て、関内候の爵位を授けらています。
やがて、211年に馬超と韓遂が涼州で反乱を起こすと、曹操はみずから討伐におもむき、許褚も従軍しています。
この時、曹操軍と馬超軍は黄河を挟んで対峙していましたが、曹操は攻撃をしかけるため、軍勢を渡河させました。
曹操はまず、兵士たちを先に渡らせ、自身は許褚と虎士百人だけで河岸に留まり、後方を守ります。
すると、その様子に気づいた馬超が、曹操を討つ好機だと判断し、騎兵と歩兵一万人を率いて攻め寄せ、雨のように矢を射かけてきました。
許褚は曹操に、「賊の数が多く、兵の渡河は終わったのですから、立ち去るべきです」と進言をします。
そして曹操を助けて船に乗せ、撤退を図りました。
しかし馬超の攻撃は激しく、軍兵が争って船に登ろうとしたので、その重みで沈没しそうになります。
このため、許褚は船によじ登ろうとする者を斬り捨て、左手で馬の鞍を掲げて曹操を降り注ぐ矢から守ります。
やがて船頭が流れ矢に当たって死亡すると、許褚は右手で船をこいで黄河をさかのぼり、やっとのことで渡りきって、馬超の攻撃から逃れることができました。
もしもこの時、許褚が際だった働きを見せなければ、曹操は馬超に討ち取られていたかもしれません。
許褚はまさしく、曹操にとっての守護神だったのでした。
馬超との会見でも曹操を守る
その後、曹操は馬超や韓遂と、単独で会見する機会を作りました。
この時、側近の者たちはみな後方に控え、許褚ひとりがお供をします。
一方で、馬超は自分の力を頼み、あわよくば曹操を捕縛してしまおうと企んでいました。
馬超はかねてより許褚の評判を聞いていましたので、お供の騎馬武者がその許褚なのかと疑います。
そこで曹操に「公には虎候という臣下がいるそうだが、どこにいるのかな」とたずねました。
曹操が振り返って許褚を指さすと、許褚は目をいからせて馬超をにらみつけます。
許褚が側にいては、容易に手出しできないと判断し、馬超は行動を起こしませんでした。
許褚の存在感は、そこまで高まっていたのです。
この後で両軍は決戦を行いましたが、曹操は策略によって敵の連携を乱し、馬超・韓遂をさんざんに打ち破ります。
この戦いでも許褚は活躍し、多くの敵を討ち取ったので、武衛中郎将に昇進しました。
後の世において、皇帝を守護する者は「武衛」という称号を与えられますが、これは許褚が起源となっています。
日本では室町時代に斯波氏が「武衛家」という通称で呼ばれますが、これも起源は同じです。
虎痴と呼ばれる
軍中では、許褚が虎のような力を持ち、痴(ぼうっとしている様子)であることから、「虎痴」という号で呼んでいました。
馬超が「虎候」と許褚のことを呼んだのは、そのためです。
この名称は世に広く知れ渡りましたが、三国志が書かれた頃(晋代)には、許褚ではなく、虎痴が姓名だと思いこんでいる人が多かったほどだそうです。
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