躍進して大名となる
こうして光秀は足利義昭と信長の二人に仕える身分となりました。
そして信長が上洛すると、さっそく木下秀吉らとともに京都の政務を任されており、重用な役目に抜擢されます。
その後は金ヶ崎の戦いにおける、困難な撤退戦で殿役を務めてこれを成功させ、軍の指揮能力を備えていることも実証します。
さらに1571年に行われた比叡山の焼き討ちでは、その実行部隊として信長の命令を忠実に実行し、信長からの信任を得ました。
(この時光秀は信長に反対した、という説がありましたが、今では積極的に焼き討ちに参加したことがわかっています。)
これらの功績によって、近江の滋賀郡に5万石の領地を与えられ、信長に仕え始めてからわずか3年で、大名の身分にまで登りました。
いくら信長が人材好きだと言っても、自身の領地をまるで持たなかった者が5万石もの大領を与えられるのは、異例の出世だと言えます。
この扱いからして、この頃には信長から一族に近い扱いを受けていた、と見ることもできるかもしれません。
京都の政務が見れるほど行政手腕があり、戦場での働きも確かなものでしたので、重く用いられるのは無理もありません。
しかし、同じく多方面で活躍しており、1554年から仕えていた木下秀吉よりも先に大きな領地を与えられたことは、能力だけでは説明が付きません。
先にも述べた通り、信長には身内びいきの傾向があり、光秀もまたその対象に入り、恩恵を受けていたのだと考えられます。
その上、光秀は常に信長の機嫌をうかがい、その嗜好に精通し、気に入られるように贈り物を絶やさなかったと言われています。
こうして光秀は信長の寵愛を受け、立身出世の道を突き進んでいくことになります。
一方で、古くから信長に仕える他の家臣たちからは疎まれていたようであり、家中での評判は決してよくなかったようです。
これには、急速な出世を遂げる光秀への妬みの気持ちが、多分に含まれていたことでしょう。
足利義昭を見限る
1573年には将軍となった足利義昭と信長の関係が悪化し、戦いが起きますが、光秀はこの時に足利義昭を見限り、信長に従いました。
信長のおかげで将軍になったと言っても、実質的な権力は与えられておらず、足利義昭はそれを不満に思っていました。
そのため、自分を押さえ込んでいる信長を排除しようと、各地の大名に信長を攻撃するように扇動をしていたのです。
これをやめさせるため、信長は足利義昭を京都から追放し、彼を政界から遠ざけることにしました。
こうして光秀の主は信長ひとりになりました。
自分を選んだ光秀のことを、信長はさらに重用するようになっていきます。
1575年に光秀は惟任(これとう)という名族の姓を賜り、同時に日向守の官位にも任官しています。
惟任は九州の名族で、日向は九州の国名ですので、信長は将来、九州攻略の際に光秀を大将にする思惑を持っていたのでしょう。
丹波攻略戦
近江の坂本城主となった光秀は、信長配下の軍団長として各地を転戦しつつ、丹波国(兵庫県の北東あたり)の攻略を信長から任されます。
丹波は堅城が多く、山で各地が分断されているため、一度に攻略するのは難しい土地柄です。
なので光秀は少しずつ城を攻め落とし、領主である波多野氏を追い詰めていきます。
その間にも信長から各地に出動するよう命令を受け、本願寺攻めや紀州の雑賀攻めなどにも参加しています。
そして1579年に、ようやく丹波一国の攻略に成功しました。
そして細川藤孝と共同してすぐに丹後(京都北部)も攻め落とし、京都周辺の敵勢力を駆逐します。
そして信長から丹波一国を加増され、34万石を領有することになりました。
丹波は京都に隣接する地域ですし、そこにこれだけの大領を与えられていたことから、光秀は信長の家臣団の中でも特に高く評価されていたことになります。
この頃が光秀にとっての絶頂期でした。
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