森蘭丸は織田信長に小姓として仕え、寵愛を受けたことで知られる人物です。
容姿が美しかったと言われていますが、それだけでなく、蘭丸は才知に秀でており、細やかな気遣いができる性格でした。
そして信長に対する忠誠心が厚く、このために若くして秘書官として重用されるようになります。
しかし、信長が本能寺で明智光秀に襲撃された際に最期を共にしており、わずか18才で世を去ることになりました。
この文章では、そんな蘭丸の生涯と逸話を紹介します。
【森蘭丸の肖像画(後世の想像図)】
森可成の子として生まれる
蘭丸の父は森可成といい、信長が尾張(愛知県)の一領主だった時代から仕えていた、古参の武将でした。
信長が尾張や美濃(岐阜県)を統一する過程で活躍し、重臣のひとりにのし上がっています。
やがて南近江(滋賀県南部)の守備を任されるようになるのですが、信長が北近江の浅井長政と敵対した際に、浅井軍が信長の背後を突こうとする事態が発生しました。
この時に可成は信長の危機を救おうとして、わずかな手勢で浅井軍に立ち向かいますが、衆寡敵せず、あえなく戦死してしまいます。
このために信長は可成の遺児たちを引き取り、手元で養育するようになりました。
このうちの一人が蘭丸で、成長すると信長に小姓として召し抱えられています。
小姓とは、主君の側に仕えて身の回りの仕事をこなす者のことを言います。
有力な武将の子弟が採用され、主君に気に入られれば、若くして出世をすることもありました。
信長に仕え、高く評価される
蘭丸は1565年の生まれで、信長に仕えたのは1577年、数えで13才の時のことでした。
信長の側に侍し、身の回りの雑用をこなしましたが、利発でよく気がつくことから、日を重ねるごとに気に入られていきます。
ある時、信長は爪を切って畳の上に置き、小姓を呼んで「それを捨てよ」と命じます。
小姓は言われるままに拾って立ち上がろうとするのですが、信長から「待て」と言われ、爪を置いて去るようにと告げられました。
何人かが同じように呼ばれるのですが、いずれも爪を拾って立ち上がったところで、それを置いていけ、と言われました。
皆が不思議に思っていると、そのうちに蘭丸も呼ばれます。
蘭丸も命じられた通りに爪を拾うのですが、そのまま立ち去ろうとせずに、一つ、二つ、と数え始めます。
数え終わると爪が九つしかなかったので、もう一つあるはずだと思い、信長に心当たりをたずねました。
これに応じて信長が袖を払うと、残りの一つが落ち、蘭丸はそれを紙に包んで持ち出します。
そして信長が人をやって、それをどうするかを確認させると、蘭丸が堀の中に捨てる様子が目撃されました。
報告を聞いた信長は満足し、「蘭丸は主人のためになるようにと、細かく気を配っている」と褒め称えました。
信長はわざと爪を一つ隠しておき、小姓たちがそれに気がつくかどうかを試していたのです。
そして蘭丸だけが気がついたので、信長からその鋭敏さを気に入られることになったのでした。
わざと座敷で転ぶ
蘭丸が主人ために大変に気をつかっていたことの証しとして、次のような話もあります。
ある時、僧が信長に面会するために安土城を訪れたことがありました。
僧は土産にたくさんのミカンを持ってきて、これを台に積んで献上しました。
この台を蘭丸が座敷に運んで披露しようとしたのですが、信長は「そなたの力では危ない、倒れてしまうぞ」と注意します。
すると信長が言った通り、蘭丸は座敷の真ん中で転び、ミカンを散らばらせてしまいました。
信長は「我が目利きの通りだ、それ見たことか」と言いましたが、さして気分を害した様子でもありません。
次の日、他の小姓たちが蘭丸に「昨日は御前で失敗をしてしまったようだが、さぞかし気を落としているのではないか?」と声をかけました。
これに対し蘭丸は「少しも気を落としてはいない。殿が『危ない、倒れるぞ』とおっしゃられたのに、ミカンの載った台をとどこおりなく運ぶと、殿の目利きを違えてしまったことになる。だから私はわざと倒れたのだ。主人の目利きを違えるのは、従者にとって何よりも悪しきことなのだから」と述べました。
これを聞いた小姓たちは、蘭丸の気の回りように感心した、ということです。
これには蘭丸の主人思いな性質が表れていますが、信長におもねっているように感じられるところもあります。
しかし蘭丸は単に信長に従うだけでなく、諫言をすることもありました。
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