毛利元就はどうして厳島の戦いで陶晴賢(隆房)に勝利できたのか?

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三浦房清の奮戦

晴賢は家臣たちが時間稼ぎをしている間に港までたどり着きますが、既にそこには一隻も船が残っていませんでした。

やがて小早川隆景の率いる部隊が追いすがって来たため、三浦房清が必死に防戦を行います。

房清は晴賢に厳島への渡海を進めていた経緯があり、敗戦の責任を強く感じていました。

房清の奮戦によって、隆景が負傷するほどの抵抗を受けますが、やがて消火活動を終えた元春が駆けつけて来ます。

兄弟の連携攻撃を受けた房清は手勢を失い、やがて討ち死にしました。

晴賢の自害

房清が時間をかせぐ間に、晴賢はさらに西の大江浦という港を目指しますが、そこにも船はなく、ついに島からの逃亡をあきらめます。

晴賢は家臣に介錯を任せ、大江浦で自害しました。

残ったわずかな家臣たちは、晴賢の首を隠してから、いずれも後を追って自害しています。

晴賢の死は、義隆を殺害して大内氏の実権を握ってから、わずか4年目のできごとでした。

弘中隆包の戦死と陶軍の壊滅

晴賢が自害した頃、島内に残る陶軍は大半が降伏し、抵抗を続けるのは弘中隆包が率いる300ほどの軍勢のみとなっていました。

隆包はこの期に及んでも降伏せず、最後まで戦い続けています。

隆包は龍ヶ馬場という岩場に立てこもり、包囲した元春を相手に数日粘り続けますが、ついに力尽きて討死し、弘中隊は全滅しました。

この戦いの全体を通し、陶軍は4700人が討死し、3000人が捕虜になったと言われています。

こうして元就とその子どもたちは、4千対2万という圧倒的な大差を覆し、記録的な戦勝を飾りました。

晴賢の首を得る

毛利軍は隠された晴賢の首を捜索するうちに、晴賢の草履取りの少年を捕縛します。

そして命を助けることを条件に首が隠された場所を聞き出し、これを発見しました。

元就は凱旋した後、首実検の際に晴賢の首を何度か鞭で叩き、「主君を討った逆臣め」と言って咎めています。

そうすることで、「主君だった大内義隆の敵討ち」という正義が自分にあると示したのでしょう。

晴賢の首は、この後で安芸の寺に葬られています。

厳島の清掃

元就はこうして勝利を収めると、厳島の全域の清掃を行いました。

厳島が神域とされていることは先ほども触れましたが、この島に死というケガレを持ち込むことは禁じられており、島内にはひとつも墓が置かれていないほどでした。

このため、元就はすべての戦死者の遺骸を運び出させ、戦場になって血に汚れた場所の土を削り取らせています。

そして神社の社殿などに飛び散った血を洗い流し、その後で死者の冥福を祈る行事を行いました。

これをもって、厳島の戦いは完全に終焉しています。

その後の大内氏と毛利氏

晴賢と何人もの中核を担う武将たちを失ったことで、大内氏は厳島の戦いの後、急速に衰退していきます。

元就は戦後処理を終えると、すぐに周防と長門への侵攻を開始しました。

そして2年後までには大内義長を自害に追い込み、大内氏を滅亡させています。

義長は謀反人である晴賢が担いだ主君でしたので、これを討つことは義隆の仇討ちにつながる、という大義名分を用いたものと思われます。

こうして元就は、安芸・周防・長門の3カ国を支配する大大名の地位につきました。

そして後に尼子氏をも攻め滅ぼし、中国地方8ヶ国の領主にまでのし上がっています。

厳島の島の戦いを契機として、毛利氏が中国地方の覇者にまで勢力を拡大したことから、この戦いは「桶狭間の戦い」と並び、戦国時代の下克上を象徴する戦いのひとつとして知られています。

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