その後
吉継の首を埋めた湯浅五助は、その直後に藤堂高虎の重臣・藤堂高刑に見つかってしまいます。
そこで五助は高刑に頼み、自分の首を渡すから、主君の首を埋めたことを黙っていてほしい、と願い出ます。
これを高刑は了承し、五助の首を取って引き上げました。
高刑は論功行賞において、五助の首を取ったことを家康から賞賛されますが、吉継の側近である五助を討ち取ったのであれば、吉継の首のありかも知っているだろうと詰問されます。
しかし高刑は五助との約束を守り、頑としてそのありかを白状しませんでした。
その姿勢に家康は感心し、それ以上は問い正さず、高刑に褒美を与えたと言われています。
こうして吉継の首は、晒し者にされずにすみました。
吉継という人物
これまで見てきた通り、吉継は軍事・調略・兵站・内政、いずれの分野においても優れた業績を残しており、万能とも言える能力の持ち主だったことがわかります。
秀吉からその能力を高く評価され、病を得た後も引退を許されなかったのもうなずけます。
時勢を見抜く目も備えており、いち早く次の天下人になる家康に味方してもいます。
しかし、それだけであれば、ただの目端が利く有能な人物であるに過ぎないと、藤堂高虎と同じような評価になっていたでしょう。
不利を承知で三成に味方し、得られたはずの栄光も捨て、友情に殉じて最後まで戦い抜いたからこそ、その存在が群雄の中で際立つことになりました。
子孫たちの行方
関ヶ原の戦後に大谷氏は領地を没収され、嫡男の大谷吉治は浪人になります。
吉治は徳川氏と豊臣氏の関係が悪化し、大坂の陣の戦役が発生した際に大坂城に入り、100人を率いる将に任じられました。
そして夏の陣では義理の兄である真田幸村とともに前線で戦いますが、福井藩主・松平忠直の配下に討ち取られ、戦死しています。
その後、吉治の甥で、吉継の孫にあたる大谷重政が1626年に、福井藩に1800石で召し抱えられました。
この時の福井藩主・松平忠昌は家康の孫であり、徳川氏に逆らった大谷氏の人間が、徳川一門の大名家に高禄で召し抱えられるとは、奇妙な話ではあります。
これには、家康は自分と敵対した吉継のことを、決して悪くは思っていなかったことに遠因があるようです。
大谷重政が福井藩に仕官したという話を聞いた当時の幕閣は、「家康公が知ったら喜んだだろう」と感想を述べており、家康が生前に吉継のことをどのように語っていたかがうかがい知れます。
自分につけば勝利でき、多くの領地が得られるとわかっていたのに、あえて友人である三成のために戦った吉継の心情を、爽やかなものとして家康は受け取っていたのかもしれません。
後世の我々が吉継に惹きつけられるのと、同じ感想を抱いていたものと思われます。