王朗 博識で徳を備えた魏の宰相

スポンサーリンク

曹丕の狩猟を諌める

曹丕が魏の皇帝になると、王朗はふたたび司空になり、楽平郷候に爵位が進みます。

このころ、曹丕は狩猟に出かけ、夜になってから宮殿に帰ってくることがよくありました。

なので王朗は上疏してこれを諌めました。

皇帝が身柄を動かせば、警護しなければなりませんし、道々の安全も確保しなければならず、費用がかさむからです。

その他にも、節約を促す提言をしたり、功績があったにも関わらず、取り立てを受けていなかった人物を推薦するなどもしており、朝廷が健全に運営されるようにと気を配っています。

孫権への対応に意見を述べる

建安の末年(二二〇年)、孫権は初めて使者を送ってきて、魏の藩国(属国)を称し、劉備と戦いました。

詔勅が出され、「出兵し、呉と力を合わせて蜀を取るべきかどうか」と議題が投げかけられます。

王朗は次のように意見を述べました。

「天子の軍は華山や泰山よりも重いものです。座したままで天威を輝かせ、動かざること山の如しであるべきです。仮に孫権自身が蜀軍と対峙し、長く時間をかけて戦いましても、知恵と力が拮抗していますので、速やかに決着がつくことはないでしょう。呉軍が出撃し、蜀を討つ勢いが成立しましたら、しかる後に軽々しくふるまわない将軍を選び、侵攻してきた賊の攻撃を待ち、時期を見てから動き、地勢を選んでから進軍すれば、一度に決着がつき、余事はなくなります。いま孫権の軍は出動していませんので、呉軍を援助するために、こちらの軍勢が先に動く必要はありません。そしていまは雨が多いので、軍を動かすべき時ではありません」

曹丕はこの王朗の策を採用し、呉と蜀の戦いの様子を観望することにしました。

そして呉が優勢となってから軍を動かしますが、すると呉は蜀を魏に奪われることを警戒して、蜀と和睦します。

このため、魏が蜀を奪うには至りませんでした。

引退しようとするも、引き止められる

黄初こうしょ年間に、公卿たちに対し、品行に優れた君子を推挙するようにと、詔が下されます。

王朗は光禄大夫の楊彪ようひょうを推薦し、病にかかったと称して、地位を楊彪に譲ろうとしました。

このため、曹丕は楊彪のために属官を置き、位を三公(大臣)に次ぐものにしました。

そして王朗には別に詔勅を下します。

「朕は君に賢人を求めたが、君は病だと称している。まだ賢人を得ていないのに、さらに賢人を失う道を開き、玉鉉ぎょくげんかなえの吊り輪)の傾きを悪化させようとしている。自室にいて、そこで発した言葉がよくないものであれば、君子に批判されるものではなかろうか。君はこれ以上は言わないようにしてくれ」

こうして曹丕から引き止めを受けたので、王朗は官職に復帰しました。

孫権への対応に意見を述べる

孫権は子の孫登そんとうを参内させ、皇帝に近侍させると述べていましたが、孫登はなかなかやってきませんでした。

このため、曹丕は御車で許昌まで行き、大規模な屯田を開拓し、東征(呉討伐)のための軍勢を起こそうとします。

王朗はこの事態に対して意見を述べました。

「その昔、南越は善き姿勢を守り、太子の嬰斉えいせいを参内させて天子に近侍させました。すると太子は家を継ぐことになり、帰国するとその地の君主になりました。

康居こうきょは驕慢でずる賢く、実情と言葉が一致しない人間でした。このため、都護とごが上奏して王子を近侍として送り出し、無礼をやめさせるべきだとしました。

一方、呉王・劉濞りゅうびが起こした反乱は、その子を参内させたことから始まり、隗囂かいごうの反乱においては、人質であるその子は顧みられませんでした。
(王朗は、人質を取ることには、効果がある場合とない場合があることを列挙しています)

先に、孫権がその子を遣わすと述べたと聞きましたが、まだ到着していません。いま六軍が厳戒体制をしいています。臣が恐れますのは、民が聖旨を理解せず、国家は孫登の遅れに怒り、このために軍を動かすのだろうと、考えるであろうことです。

軍が進軍して孫登がやってきた場合、動かすものが大きいのに、招いたものは小さいことになり、これは慶事とすべきほどのことではありません。

もし孫権らが傲慢かつ凶悪で、参内する意志を持っていなければ、聖旨を理解していない民たちは、憤りの気持ちを抱くことでしょう。臣の愚かな考えでは、別の遠征軍の諸将に命じ、それぞれに禁令を奉らせ、部所を慎重に守らせるのがよろしいでしょう。

外部に対しては威光を輝かせ、内に対しては耕作を広げます。そして山のように泰然とし、淵のように静かな態度と、ゆるがされない体勢をとり、敵に予測のできない計略を用いられますように」

このように、王朗は孫権が子をよこさないからといって、そのために軍隊を動かすのは適当な策ではないと指摘したのでした。

しかしこの時、曹丕は軍を編成していたので、そのまま出発します。

結局、孫権の子はやってこなかったので、御車は長江を臨んで、そこから引き返しました。

王朗が心配していた通りの結果になりましたが、曹丕はこの後、国内が軍事や役務によって消耗しているので、劉備や孫権を捨て置く意志を表明します。

こうして曹丕の代では大きな戦いは行われず、三国の拮抗状態が続くことになりました。

【次のページに続く▼】