やがて亡くなる
王朗は著作も多く、『易』『春秋』『孝経』『周官』などの注釈を書き表しています。
そして上奏文や議論、記事などもすべて世に伝わっており、『王朗集』が編纂されました。
生涯に渡って高官の地位にありましたが、太和二年(二二八)に亡くなり、成侯とおくりなされています。
子の王粛が後を継ぎました。
王粛は父に似て、経典の研究をし、刑罰を軽くするように提言するなど、政治が過ちを犯さないように、たびたび働きかけを行いました。
侍中や太常(宗廟の司)などを歴任し、死後は衛将軍を追贈されるなど、こちらも立身しています。
司馬氏と親しみ、その娘は司馬昭に嫁いでおり、晋の初代皇帝となる司馬炎を生みました。
つまり王朗は司馬炎の母方の曽祖父であり、王粛は祖父だということになります。
王朗評
三国志の著者である陳寿は、王朗を次のように評しています。
「王朗は文才があり、知識が大変に豊かだった。一時代の俊英であり、魏氏が初めて帝位についた際に、三公となった。栄えあることだ」
王朗は単に知識があっただけの人ではなく、現実の政治に関わり、国が栄えて民の暮らしがよくなるように働きかけるなど、徳性を備えた人物だったと言えます。
王朗は鍾繇や華歆と並び称され、魏の初代大臣となりましたが、父から受け継いだ人材だったとは言え、彼らを高位につけ続けた曹丕の見識もまた、褒められてよいものだと思われます。
