起用と免職を繰り返す
諸葛亮の死後、来敏は成都に戻って大長秋(皇后府の責任者)となりましたが、再び免職となります。
また、後に官に復帰し、光禄大夫(皇帝の顧問)にまで昇進しますが、過失を犯して退職させられています。
このようにして何度も免職になったのは、言葉に節度がなく、行動が異常だったためだ、と記されています。
来敏は自尊心が強すぎ、自分の上に人がいるのが我慢ならない性分だったのかもしれません。
官に仕えるには、向いていない人柄だったと言えます。
費禕を試す
来敏が光禄大夫だった頃、次のような挿話を残しています。
244年に、魏軍が十数万の大軍を動員して漢中に侵攻してきましたが、漢中には3万の守備兵しかいなかったので、蜀の国内には緊迫した空気が漂いました。
このため、蜀の大将軍である費禕は、成都から軍勢を率いて漢中の救援に向かうことになります。
費禕が出発の準備を進めていると、来敏が別れの挨拶にやってきて、囲碁をやろうと言い出しました。
周囲では軍を召集するための文書が行き交い、人も馬も鎧を身につけ、馬車の準備も完了しています。
そんな中、費禕は来敏との囲碁に熱中し、少しも苦にする様子を見せませんでした。
このため、来敏は「さきほどはあなたを試してみただけです。
あなたは大将軍にふさわしい人物です。
必ず賊軍を打ち破ることができましょう」
と費禕を称賛しました。
そして出陣した費禕は、魏軍を追い払うことに成功します。
費禕の肝が据わっていたことを表している挿話ですが、出陣直前に費禕を試そうと囲碁を申し入れる来敏は、確かに常識外れの人物だったようです。
世間からは大切にされる
この頃、蜀には孟光という学者がいて、来敏とは『春秋』という史書の解釈をめぐり、激論を交わす間柄でした。
孟光は直言をためらわない性格で、重大事に対して慎んだ態度を取りませんでした。
その上、大勢の議論に逆らっていたため、人々から煙たがられていました。
しかしそれでも「来敏よりはまだましである」などと言われており、来敏の嫌われぶりは尋常ではなかったようです。
それでいて、二人とも世間からは、年老いた徳望のある学者として扱われ、大切にされました。
官吏の世界における評価と、世間一般からの評価は、異なるものだったようです。
優遇を受け、再び地位を与えられる
来敏は荊楚(中国南部)の名家の出身で、劉禅が太子だった時代からの旧臣だったので、特に優遇を受けました。
このために、何度免職をされても、再び起用されたのです。
やがて来敏は執慎将軍に任命されますが、これは彼が地位の重さを自覚して、自戒することが期待されたからでした。
蜀の人々が、来敏の扱いに苦慮していた様子がうかがい知れます。
やがて亡くなる
来敏は97才まで生き、景耀年間(258-263年)に亡くなりました。
263年に蜀は滅亡していますので、来敏は建国から滅亡までを、ほぼ見届けたことになります。
子の来忠もまた、経学を広く身につけ、来敏の面影があったとされています。
こちらは人と調和することができたようで、大将軍となった姜維を補佐し、参軍に任じられています。
来敏評
三国志の著者・陳寿は来敏を「博学多識で、徳行の点では称賛を受けなかったが、一代の学者であった」と短く評しています。
蜀の学者にはなかなか癖のある人柄の持ち主が多かったようですが、その中でも来敏の存在は際立っており、はっきりと問題人物だったと記されています。
おそらくはもともとの性格に加え、名門の出身だったことが来敏の気位を過剰なまでに高くさせ、それが歪みとして態度に表れていたのだと思われます。