諸葛亮によって庶民に落とされる
これを聞いた諸葛亮は、上表して述べました。
「長水校尉の廖立は、何もしていないのに尊大に構え、士人たちを非難しました。
国家が賢明な人物を用いず、俗吏を用いていると公言しました。
そして万人を率いる大将が小物だと放言し、先帝を誹謗し、多くの臣下の名誉を傷つけました。
ある者が『国家の兵士は選び抜かれ、よく鍛えられていて、組織もしっかりと構築されている』と言いました。
すると廖立は頭を上げ、屋根を見つめながら、憤然としてどなりました。
『あんなものに、褒めるほどの価値があるものか!』
このようなことが、数え切れないほどあります。
羊が群れを乱すことでさえ、害があるものです。
まして廖立は高い位にあるのですから、知性が劣った者たちに、彼の言葉の真偽を見分けることができましょうか。
廖立は先帝に仕えては忠孝の心が欠けており、長沙の太守となってからは門を開いて敵を迎え入れ、巴郡を担当しては職務に暗く、役目を果たせていませんでした。
大将軍に随行して人を誹謗し、先帝の柩に侍している時に刀を携え、柩の側で人の頭を断ち切るようなふるまいをしました。
陛下が即位なされて後、諸人の官職や称号を高められましたが、廖立はそのために将軍になりました。
しかし、臣に面と向かい『私がどうしてありふれた将軍たちの中に入れられるのでしょうか。
私を卿(最高官)に取り立てるように上表なさらず、五校(五つの校尉の位)などに置かれるのはなぜでしょう』と申しました。
このため、臣は『将軍にしたのは、人員の比較によってのことだ。
卿に至っては、まだ正方(李厳)でもなっていないのだから、君は五校の地位にいるのが適切だろう』と告げました。
これ以後、廖立は不平と恨みを抱くようになったのです」
この上表の結果、次のような詔勅が下されます。
「三苗(異民族)が政治を乱した時、虞帝(古代の賢王)はこれを助命し、流刑ですませた。
廖立は狂い惑った男だが、朕は死刑にするのは忍びない。
すみやかに不毛の荒地に放逐せよ」
こうして廖立は地位を剥奪されて庶民に落とされ、汶山郡の辺境に流刑となります。
高すぎた自己評価と口の悪さが、身を損なわせることになったのでした。
諸葛亮の死に涙する
廖立は妻子をつれて移住し、自ら農耕を行い、生計を立てました。
やがて諸葛亮が亡くなったと聞くと、涙を流して嘆きます。
「これでわしは、蛮族の仲間になってしまうだろう」
廖立は自分を罰した諸葛亮を恨んでおらず、生きていれば、いずれは罪を許してくれるかもしれないと期待をしていたようです。
これは同じく諸葛亮に罰せられた李厳もまた、同じような発言をしており、諸葛亮の刑罰の公平さがうかがえる挿話となっています。
配所で死亡し、妻子は蜀に戻る
後に将軍の姜維が、部隊を率いて汶山に至った際に、廖立の家を訪ねたことがありました。
すると廖立の意気は衰えておらず、言論はしっかりとしていました。
姜維はこのことを称賛しています。
廖立は結局、そのまま汶山で亡くなり、妻子は蜀に戻りました。
廖立評
三国志の著者・陳寿は「廖立は才能によって抜擢を受け、昇進をした。しかし品行が悪く、その身に災いを招いたのは自業自得と言える」と評しています。
廖立が身を損なったのは、口の悪さのゆえでしたが、それは自分こそが一番偉いのだと、根拠もなく思い込んでいたことに発するのでしょう。
そのためにある程度の、本来はふさわしい地位を得ても満足できなくなり、不平不満を心にためこみ、やがて爆発して、言ってはいけないことを言ってしまったのでした。
廖立は評価を受けられなかったときに、それが高まるように努力をせず、他人が悪いとのみ考えたわけですので、やがて地位を失ったのは、当然の結末だったと言えます。