張魯と仇敵の間柄になる
劉璋が益州牧になると、間もなく漢中を統治していた張魯が、不穏な動きを見せるようになりました。
張魯は劉焉には従っていたのですが、劉璋に代がわりをすると、命令に背くようになります。
このために劉璋は、領内にいた張魯の母と弟を処刑したので、両者は仇敵の間柄になりました。
劉璋はついで、龐羲を派遣して張魯を攻撃させましたが、抵抗が激しく、討伐することはできませんでした。
張魯は巴西という土地に兵を集めていましたので、劉璋は龐羲を巴西太守に任命し、張魯の勢力を削り取らせようとします。
龐羲には、かつて子どもたちを長安から連れて帰ってきてくれた恩があったため、劉璋は彼を重用していました。
しかし、龐羲はやがて劉璋と仲違いをし、命令に服しなくなります。
このため、劉璋は張魯を討伐できず、龐羲とも関係が悪化し、益州北部の支配権を喪失してしまいました。
このあたりの流れを見るに、劉璋は部下を統率する手腕が欠けていたことがわかります。
劉璋は物事に対して、毅然とした態度でのぞむことができなかったので、人から侮りを受けやすかったのでした。
【張魯が反逆した頃の勢力図 南西部に劉璋の勢力がある】
東州兵の問題
こうして益州の統治体制がゆらぎ始めると、今度は腹心のはずの趙韙が反乱を起こしました。
これより以前、南陽あたりに住んでいた数万の民衆が、益州に流れ込んでいました。
劉璋は彼らをとりまとめ、東州兵と名づけて用います。
しかし劉璋は、よそものである彼らが、元から益州に住んでいる民の権利を侵害しても、取り締まることができませんでした。
このため、益州の民の多くは、劉璋に怨みを抱くようになります。
劉璋はこの問題への対処を趙韙に任せましたが、趙韙はやがて、民の怨みを利用して謀反を起こし、益州を乗っ取ることを計画しました。
趙韙には忠誠心が欠けていた、という問題もありますが、これは劉璋の優柔不断と怠慢が招いたことでもあり、自業自得だったと言えます。
趙韙の反乱
趙韙はまず、荊州の劉表に賄賂を送り、和睦を請いました。
そうして自軍が自由に動けるようにしてから、益州の豪族たちに手を回し、反乱に加担するように促しました。
準備を整えた趙韙は挙兵し、劉璋に攻撃をしかけます。
これに蜀・広漢・犍為の各郡が呼応したため、劉璋は重大な危機に陥りました。
漢中や巴をのぞくと、益州は七郡で構成されていますので、半分近くが反乱に加担したことになります。
これを受け、劉璋は本拠地の成都に立て籠もり、守りを固めました。
この時に劉璋とともに戦ったのは、東州兵でした。
彼らは趙韙が勝利すると、怨みを晴らすために、益州の民から危害を加えられるだろうと予想し、劉璋と力を合わせることにしたのです。
そして心をひとつにし、必死になって戦い抜きました。
すると、その結束の強さが反乱軍を上回り、撃退に成功します。
東州兵はそのまま江州にまで進軍し、趙韙を追いつめました。
やがて趙韙の部下が寝返りをうち、趙韙を殺害したので、それによって反乱が終結します。
このようにして、劉璋は再び、かろうじて益州の支配者の地位を保ったのでした。
しかし、こうも次々と反乱を起こされていることから、いずれ劉璋がその地位を失うのは、時間の問題だったのでした。
曹操に使者を送る
208年になると、大陸北部を制覇した曹操が、南下を開始します。
曹操が荊州に攻撃をしかけると、劉璋は彼を怖れ、使者を送って友好関係を構築しようとします。
使者が交渉をすると、曹操は劉璋に振威将軍の地位を授けました。
このころはまだ荊州の討伐が完了していませんでしたので、曹操は劉璋が敵にならないよう、慎重になっていました。
劉璋は続いて蜀兵三百人と、様々な物品を曹操に贈り、歓心を得ようとします。
益州は絹や良質な鉄の産地で、価値の高い物資が豊富な土地柄でしたので、曹操もこれを喜んだと思われます。
すると曹操は、使者の張粛を広漢太守に任命しましたので、劉璋との間に、良好な関係が築かれていくかに見えました。
しかし曹操はここで大きな失敗をし、劉璋を背かせてしまうことになります。
張松が冷遇される
劉璋は、ついで別駕(補佐役)の張松を、使者として派遣します。
しかし曹操は、荊州北部を支配下に置き、劉備を長坂で撃破したことで、おごり高ぶるようになっていました。
荊州を支配すれば、残るは益州と揚州のみになりますので、もはや天下統一を達成したも同然だと、思い上がったのでしょう。
このため、曹操は張松を歯牙にもかけない態度を見せ、張松を怒らせてしまいます。
その後、曹操は赤壁で劉備と孫権に敗れ、風土病によって多くの兵士を失ったために、撤退せざるを得なくなりました。
こうして曹操の統一事業は、頓挫することになります。
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