征北将軍は中国の官職です。
後漢や三国時代などに設置されていました。
「北を征する」の名の通り、北方を担当する方面司令官でした。
征西・征南・征東将軍と合わせて四征将軍とも呼ばれます。
使持節という独自の指揮権を与えられ、長史(副官)や司馬を任命する権利も有する、高い地位です。
また、都督と合わせて任命されることが多くなっています。
都督は広域の軍事を統括する役目でしたが、三国時代になると行政権をも兼ね備え、一地方を支配する強大な権限を持っていました。
三国時代になると戦乱が続いたため、地方の行政権と軍権をひとりに預けることで、統治と侵略を同時に行わせ、戦果をあげさせようとしたのでした。
征北将軍は薊に駐屯し、幽州・冀州・并州の三州を統括することになっていました。

しかし、これらはいずれも魏の領域内にありましたので、魏が任命する機会はなかったようです。
蜀や呉からしても、国境から遠い地域にあったため、あまり任命されませんでした。
三国志では
陸凱
三国志では、呉の陸凱が征北将軍に任命されています。
高名な陸遜の一族で、政治と軍事に活躍しました。
反乱の討伐や魏との戦いで戦功を立て、258年ごろに征北将軍に任命されています。
しかし、当時の呉はすでに弱体化が始まっていたため、積極的に魏に攻め入ることはありませんでした。
やがて左丞相に昇進すると、暴君として知られる孫皓にもひるまずに諫言をし、崩壊しつつある呉を支えようと尽力しています。
一族の陸氏の勢力が強かったため、孫皓も陸凱には手を出せず、その言葉に耳を傾けざるを得なかったのでした。
馬岱が平北将軍になる
征北将軍と類似の地位に、平北将軍というものがありました。
これには蜀の馬岱が就任しています。

【馬岱 正史では記録が少ないが、演義では活躍した】
馬岱は馬超のいとこで、劉禅が蜀の皇帝に即位すると平北将軍に任命され、魏との戦いに参加しました。
有名なエピソードには、次のようなものがあります。
234年に諸葛亮が死去すると、将軍の魏延が同僚といさかいを起こし、騒動が発生します。
やがて魏延が争いに敗れて逃亡すると、馬岱はこれを追跡して討ち取りました。
三国志演義では「わしを討てる者がいるか!」と魏延が叫ぶと、魏延に従うふりをしていた馬岱が「ここにいるぞ!」と言って斬り捨てた、という話になっています。
その翌年、馬岱は魏に攻めこみますが、敗北して千人ほどの被害を出して撤退した、という記録が残っています。
その後
その後は南北朝時代に割拠した、宋(420-479年)でも設置されています。
「三十六計逃げるにしかず」という言葉の語源になった、檀道済という人物が征北将軍になりました。
この頃、宋の北には北魏という国があり、これを討伐するために檀道済は出撃し、たびたび戦功を立てました。

【北魏と宋の勢力範囲】
出典 : wikipedia
しかしあるとき兵糧不足に陥り、士気が衰え始めます。
このために檀道済は撤退を決意しますが、追撃を防ぐため、枡に砂を盛りつけて米のように見せかけ、あるいは米をあたりにばらまいて、まだ食糧が残っているふりをしました。
北魏軍はその様子をみて、まだ宋軍には食糧が豊富に残っているのだろう、と誤認します。
その隙をついて、檀道済は宋軍を無事に撤退させました。
檀道済は『兵法三十六計』という兵法書を記しているのですが、劣勢時に用いる策に「逃げるにしかず」というものがあり、これが「三十六計逃げるにしかず」の語源となっています。
檀道済がそれを実践して結果を出していることから、有名な言葉になっていったようです。

