孫策は周瑜を厚遇する理由を述べる
孫策はその場で周瑜に二千の兵と五十の騎馬を与え、重臣としての待遇を与えました。
孫策はさらに軍楽隊を下賜し、立派な住まいも整えさせます。
贈り物の多さは他の臣下の誰よりも勝っていましたが、孫策は布告を出してその理由を説明しました。
「周公瑾は英俊にして異才であり、私と幼なじみで、家族も同然の男だ。
以前は丹楊において、軍兵と船と食糧を用意し、行軍を成功へと導いてくれた。
その徳と功績を評価すると、今の贈り物ですら報いるのに十分ではないほどだ」
この布告から見るに、周瑜は単に孫策の部隊に参加しただけでなく、叔父の周尚に働きかけ、丹楊の兵と物資を孫策に提供していたことがわかります。
この援助は挙兵したばかりの孫策にとって大きな意味をもち、それゆえに周瑜の功績も大きくなったのでした。
周瑜は個人としての能力だけでなく、周家の勢力を背景に持っていたことも、孫策から尊重された要因となっています。
牛渚の守備にあたる
周瑜はこの時24才で、呉の人々は彼を「周郎」と呼び、親しみました。
これは「周家の若君」という意味です。
周瑜は統治する地域の人々に恩徳を施して信頼を受け、牛渚という防衛拠点の守備と、春穀の県令を兼任しました。
こうして周瑜は孫策陣営の中で、確固たる地位を築いてきます。
呉を制覇し、廬江に向かう
その後、孫策は厳白虎など、揚州の各地に割拠していた勢力を次々と打ち破り、急速に勢力を拡大してきました。
その過程で、容赦なく敵を打ち殺していったのですが、やがてそのことが、孫策に災いをもたらすことになります。
ともあれ、こうして孫策がのし上がって行く一方で、旧主の袁術は落ちぶれていきました。
皇帝を名のったことで、後漢の朝敵となり、曹操や呂布などの周辺勢力に攻撃され、敗戦を重ねます。
行き詰まった袁術は、従兄弟の袁紹を頼ろうとしますが、彼の拠点にたどり着く前に、急病にかかって死去しました。
するとその残党を、袁術の部下だった廬江太守の劉勲が迎え、勢力を伸ばしています。
このように情勢が変化すると、孫策は呉から西に進撃し、廬江を奪取することを考えるようになり、周瑜とともに行動を開始しました。
晥城を奪取し、小喬と結婚する
劉勲はやがて、袁術の元部下たちを養う食糧が不足したため、自ら軍勢を率いて拠点の晥城から出陣しました。
そして食糧が豊富な地域から接収しようとしたのですが、これを聞いた孫策は周瑜とともにすぐに出撃し、速攻で晥城を陥落させます。
そして別動隊に劉勲を撃破させ、廬江郡の占拠に成功しました。
ところで、晥城には橋公という名士が住んでおり、その娘の大橋と小橋の姉妹は、大変な美人だと評判になっていました。
孫策は橋公を訪ねて姉の大橋を自分の妻にすると、妹の小橋を周瑜の妻にします。
こうして二人は義理の兄弟の関係になったのでした。
ある時、孫策は周瑜に対し、戯れにこんなことを言いました。
「橋公の娘たちは確かに大変な美人だが、われわれ二人を婿にできたのだから、喜んでもいいのではないかな」
事実、この時の揚州において、孫策と周瑜より優れた若者たちを見つけるのは、おそらく不可能だったことでしょう。
各地で勝利する
その後、孫策と周瑜は、山岳地帯に逃げ込んだ劉勲を追撃します。
すると荊州を支配する劉表が、劉勲に請われて援軍を送ってきました。
なので周瑜たちは、彼らを各個に撃破します。
そして荊州の江夏にまで攻め入り、防衛部隊を打ち破ってから帰還しました。
さらに返す刀で揚州の豫章郡や廬陵郡を制圧し、勢力を拡大します。
まさに連戦連勝で、孫策と周瑜のコンビは向かうところ敵なし、といった様子でした。
こうして孫策は絶頂期を迎え、ついには曹操にも恐れられるほどの存在になります。
孫策が急死する
周瑜は孫策から江夏太守に任命され、荊州を攻略するための準備を進めました。
しかし200年になると、思いもよらぬ訃報が届きます。
孫策はこの時、以前から敵対していた、徐州の陳登を攻撃するために出陣していました。
そして丹徒に駐屯したのですが、そこで輸送隊が到着するのを待つために、しばし時間の空きができます。
このため、孫策は周辺の野原で趣味の狩猟を楽しみますが、やがて俊足の馬を走らせて護衛を置き去りにし、ひとりで突出してしまいます。
そこを刺客に襲われ、矢を射かけられてほおに重傷を負いました。
この刺客たちはかつて孫策が殺害した、許貢という人物に恩を受けた食客たちでした。
孫策はむやみに勢力のある人物を殺害してしまう悪癖があり、このために復讐を受けることになったのです。
孫策はこの傷から回復できず、弟の孫権に後を継がせるように遺言をしてから、亡くなりました。
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