二人の孫子 – 孫武と孫臏 兵法書を書いたのは?

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孫武の活躍

この時の呉には伍子胥ごししょという優れた人物もおり、孫武は彼と並んで呉の将軍になりました。

そして呉よりも国力が強い大国・楚と戦い、勝利を収めて都を攻め落とし、呉の全盛期を現出させています。

こうして孫武は理論だけでなく、実践でも結果を出し、兵法の第一人者として人々から尊敬を受け、孫子と呼ばれるようになったのでした。

もうひとりの孫子・孫臏

史上、もうひとり孫子と呼ばれた人物がいますが、彼は名を孫臏そんぴんといいました。

孫臏は孫武の子孫だとされており、おおよそ100年後の時代に活躍した人物です。

この時代においても、中国では変わらず戦乱が続いていました。

それゆえに、孫臏が活躍する余地もまた大きかったのだと言えます。

【孫臏の肖像画】

龐涓に騙されて両足を失う

孫臏は若い頃、龐涓ほうけんという男と一緒に兵法を学んでいたことがありました。

やがて龐涓は魏という国の王に仕えて将軍になりましたが、内心では「自分は孫臏にはかなわない」と思っていました。

このため、孫臏が世に出れないようにし、自分の地位を保とうと画策します。

龐涓は人をやって孫臏を呼び寄せると、無実の罪を着せて捕縛しました。

そして両足を切り落とし、顔に入れ墨を施す、という残忍な刑罰を与えます。

そうすればもはや孫臏はまともな人間として扱われなくなり、自分の妨げとなることもなくなるだろう、と龐涓は考えたのでした。

しかしそのようなことをすれば孫臏に恨まれ、やがては復讐される可能性が高まるわけで、龐涓のやり口は中途半端で、危険なものだったと言えるでしょう。

斉の使者に救われる

孫臏はその後も罪人として捕らわれていましたが、東の大国・斉の使者が魏の都にやってきた時、ひそかに面会をし、戦略や戦術について意見を述べました。

するとその使者は孫臏の知性に感服し、人目を忍んで自分の車に乗せ、孫臏を斉に連れて帰ります。

こうして孫臏は危機を脱し、その才能を世に示す機会を得ることになるのでした。

田忌に気に入られ、知恵を示す

孫臏は斉に到着すると、田忌でんきという人物に気に入られ、その客分となります。

田忌は斉の有力な氏族の一員でしたが、時に斉の威王や公子たちと、賭け事をすることがありました。

それは馬を走らせ、どちらが先に獲物に矢を当てられるかを競う競技で、三頭の馬を用いて行います。

孫臏はそれぞれの馬の速さを見て、大差はないものの、上中下に格付けができると判断しました。

そして田忌に「大きな金額で賭けをなさいませ。私が勝てるように取り計らいましょう」と告げます。

田忌は孫臏を信頼していたので、威王や公子たちと大金を賭けて勝負をすることになりました。

いよいよ馬たちが馬場に出ると、孫臏は「殿の下の馬で相手の上の馬と勝負なさいませ。そして上の馬を中の馬と、中の馬を下の馬と取り組ませるのです」と田忌に助言します。

田忌は孫臏の言葉に従い、取り合わせを手配します。

そして三組が対戦した結果、田忌は一度は負けますが、残りの二つの対戦で勝利し、首尾よく賭け金を得ることができました。

これを受け、田忌は孫臏を威王に推薦します。

威王は孫臏に兵法について諮問すると、その回答に満足し、自らの師として遇するようになりました。

こうして孫臏は斉において、確固たる地位を獲得しています。

ちなみに威王は、古来より斉に伝わる兵法書を編纂することを命じた人物で、兵法の素養をを備えた人物でした。

だからこそ孫臏の価値が理解できたのでしょう。

田忌の軍師となる

孫臏が斉に滞在するようになってしばらくたつと、魏がちょうに攻め込みました。

すると趙は危機に陥り、斉に助けを求めてきます。

威王はこれを受諾し、孫臏を大将にして救援軍を送ろうとしましたが、孫臏は「私は刑罰を受けた不具者ですから、適当ではありません」と述べて辞退します。

このために田忌が将軍となり、孫臏は軍師として補佐することになりました。

孫臏は馬に乗れないので、荷馬車に乗って行軍します。

田忌は兵を率いてまっすぐに趙に向かおうとしましたが、孫臏は反対し、次のような作戦案を述べました。

「敵が待ち構え、充満しているところを避け、空虚なところをつけば、形勢は互角となり、敵は自然と退却するものです。

魏は趙に攻め込むにあたり、精鋭部隊を出撃させていますので、国内には老人や、体の弱い者だけが残っているでしょう。

兵を引き連れて魏の首都に向かい、都に通じる街道を占拠してください。

そうすれば敵の空き巣を襲うことになり、あわてた敵は、趙との戦いはさしおいて、必ず自国に防ぎに戻るでしょう。

この策によって我が軍は、一挙にして趙の救援と、魏の弱体化を成し遂げることができます」

田忌は孫臏の意見がもっともだとして同意し、策を実行に移しました。

すると孫臏の読み通り、魏軍は趙の首都・邯鄲かんたんの包囲を解いて撤退し、魏に侵入した斉軍に向かって来ます。

そして田忌と孫臏は、桂陵けいりょうの地で魏軍を討ち破って勝利し、魏の鋭鋒をくじくことに成功したのでした。

【次のページに続く▼】