二人の孫子 – 孫武と孫臏 兵法書を書いたのは?

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孫子の兵法書の著者はどちら?

このように、孫子と呼ばれた人物は二人いましたが、その影響で、『孫子の兵法書』を書いたのは果たしてどちらなのか、という論争が発生していたことがありました。

そもそも孫武は実在の人物ではない、という説もあり、かなり状況は混沌としていたのだと言えます。

『孫武の架空人物説』が発生したのは、孫武の記録が『史記』にしか見つからず、他の歴史書には書かれていないからでした。

このために孫武は実在しておらず、それよりは事跡がはっきりしている孫臏こそが兵法書を書いたのだろう、とみなすむきもありました。

しかし後に古代の墓を発掘した際に、孫子の兵法書を記した書簡が見つかります。

一方、それとは別に孫臏の記した兵法書も見つかっていました。

その2つの兵法書は内容も分量も異なっており、完全に別物だということが判明します。

これによって、兵法書が2種類存在しており、それぞれを記した2人の孫子が実在したことがわかりました。

こういった経緯によって、孫武は実在しており、いわゆる『孫子の兵法書』は孫武が記したものなのだろう、と見なされるようになりました。

もう一方の、孫臏が記したものは、区別するために『孫臏兵法』と呼ばれることになります。

しかし、兵法書の他には孫武の実在を示す証拠は乏しいままで、2千数百年も前の時代のことですので、完全にこれが正しい事実なのだ、と見極めるのは困難なようです。

斉の軍学の系譜が、孫子の兵法を生み出した可能性

孫子の兵法は成立してから2千年以上が過ぎても、いまだにその原理は通用しています。

それほどの兵法書を記せたのは孫武が天才だったから、ですませてもよいのですが、少し掘り下げて考えてみたいと思います。

古代中国における兵法の研究は、孫武が突然始めたものではなく、もっと前から行われていました。

孫武が登場する以前の時代に著名だった兵法家には、司馬穣菹じょうしょという人物がいます。

司馬穣菹は斉の貴族である田氏の一族で、兵法に通じていることから、重く用いられるようになりました。

彼が研究した兵法は『司馬穣菹の兵法』として編集されており、その中には『軍中にある将軍は、君主の命令ですらも聞かないことがある』という記述があります。

孫子の兵法にも同様の記述が見られることから、孫武は司馬穣菹の兵法に触れていた可能性が高いです。

孫武も斉の出身だったと言われていますので、これはまったく自然なことでした。

また孫武の一族は、元々は田氏の出身だったという説もあり、これが事実であれば、司馬穣菹と同族だったということにもなります。

だから孫武は司馬穣菹の兵法を剽窃した人物だった…というわけではなく、先人たちの研究をふまえ、それに独自の見解を加え、優れた兵法書を生み出した人物だったのではないかと考えられます。

古代中国では数百年に渡って乱世が続きましたが、その結果として、豊富な実例を元にした兵法の研究が進んでいきました。

孫武はそういった研究を体系化し、高度に結晶化することに成功したからこそ、2千年以上を経ても通用する兵法書を作り出すことができたのではないか。

孫子の兵法書は、古代中国の数百年に渡る兵法研究の集大成だったのではないか。

そのように考えると、孫子の兵法書が現代においても通用するほどの普遍性を獲得したゆえんが、理解できるように思えます。