またも反乱が起きる
後に麴演は近くの郡と結託し、再び反乱を起こします。
張掖の張進は太守の杜通を捕縛し、酒泉の黄華は太守の辛機を拒みました。
張進と黄華はいずれも、勝手に太守を自称し、麴演に呼応します。
それに加え、武都に住む三種族の蛮族が暴れまわるようになったので、通行ができなくなりました。
このため、武都太守の毌丘興が蘇則に急を告げてきます。
雍州と涼州の豪族たちは、みな羌族を捕らえて駆り立て、張進たちに従いました。
対応策を協議する
このような状況になったので、金城の民はみな、張進に敵対することはできないと考えます。
また、将軍の郝昭と魏平は、以前から金城に駐屯し、守備についていましたが、詔勅を受けていたのに、西方に移動することができないでいました。
このため、蘇則は郡の高官と郝昭らに会い、羌族の指導者とも協議します。
「ただいま、賊軍は勢力を増しているが、脅されて従っている者も多く、まとまっているとは限らない。隙を見つけて攻撃すれば、分断することができるだろう。
片方をこちらに帰順させれば、利益を得ることができ、敵に損害を与えることができる。そして軍勢が増えると、士気が向上することにもなる。それを率いて出撃すれば、賊を打ち破れることは間違いない。
もしも大軍が救援にやってくるのを待っていると、長く時が過ぎて持久戦になり、こちらの味方が増えず、賊に協力する者が増えるだろう。協力しあうようになってしまえば、それから分断を図るのは困難になる。
詔勅によって命令を受けているが、違反することになろうとも、機にかなった策を独自に実行した方がよいだろう」
この結果、郝昭らは蘇則の意見に従いました。
麴演を斬って反乱を鎮める
蘇則は出撃して武威を救援し、三つの蛮族を降伏させます。
そして毌丘興とともに張進を攻撃しました。
麴演はこのことを知ると、三千の歩兵と騎兵を率いて蘇則を出迎え、「支援しにきました」と述べましたが、実際には謀反するつもりでいました。
このため、蘇則は彼を招いて会見し、その場で斬り捨て、それから外に出て麴演の軍に、彼が死んだことを知らせます。
すると麴演の仲間たちは、みな算を乱して逃げ散っていきました。
さらに蘇則は諸軍と一緒に張進を包囲して打ち破り、張進とその一党を討ち取ります。
こうして麴演と張進が敗れると、黄華は戦意を失い、捕縛していた者たちを解放し、降伏を願い出てきました。
これによって河西は平定され、蘇則は金城に帰還します。
この功績によって都亭候の爵位を与えられ、領地が三百戸になりました。
侍中に任命される
その後、蘇則は中央に召喚されて侍中(皇帝の側近)になります。
そして董昭と同僚になりましたが、董昭はあるとき、蘇則の膝を枕にして横になりました。
蘇則はそれを押しのけ、「この蘇則の膝は、佞人のための枕ではないぞ」と言います。
蘇則はこのことから、董昭を嫌っていたことがわかります。
一方で、宮中で立身するには、蘇則は正直すぎる人柄の持ち主だったこともうかがえます。
ちなみにこの時代の中国では、男性が男性の膝を枕にすることは、しばしばあったようです。
【次のページに続く▼】