漢の終わりに慟哭する
これより前のこと、蘇則と曹植は、魏が漢に取って代わったと聞くと、ともに喪に服し、声をあげて泣き、悲しみました。
魏の初代皇帝、すなわち漢から帝位を奪った当人である曹丕は、曹植がそれを行ったことは知っていましたが、蘇則については知りませんでした。
曹丕がある時、都である洛陽においてくつろぎ、「わしは天意に応じて禅譲を受けた。聞くところによると、声を上げて泣いた者がいるそうだ。それはどうしてだ?」と言います。
蘇則は自分のことを問われているのだと思い、あごひげとほおひげをぴんと張り、正しく論じて回答しようとしました。
すると同僚の傅巽が蘇則をつねり、「君のことを言っているのではないよ」と告げたので、蘇則は発言するのを止めています。
曹丕の質問に答える
ある時、曹丕は「以前に酒泉と張掖の反乱を打ち破ったが、これによって西域が使者を送ってくるようになった。敦煌では一寸もある大粒の真珠を献上してきたが、再び交易を行い、利益を得るべきだろうか?」と蘇則にたずねました。
すると蘇則は「もしも陛下が、中国を十分に教化なされば、その徳は砂漠にも流れて行き、求めずとも自ずからやって来るでしょう。求めて得ようとするのは、尊い行いだとは言えません」と答えます。
曹丕はこの返答を気に入らなかったのか、黙ったままでした。
蘇則は董昭を佞人だとして罵っていますが、相手の気に入られるように立ち回ったり、発言したりはしなかったようです。
曹丕を諌める
それから後、蘇則は曹丕の狩猟のお供をしたことがありました。
すると罠がはずれ、鹿が逃げてしまう事態が発生します。
曹丕は激怒し、腰かけに座ると刀を抜き、監督官たちをみな捕縛させ、斬り捨てようとしました。
蘇則は頭を地につけ「臣が聞くところによりますと、古の聖王は禽獣に関することで、人を害することはなかったとか。ただいま、陛下は堯(古代の聖王)が行われた教化を盛んにしておられますが、狩猟の遊戯によって、多くの役人を殺害しようとなされています。愚臣からしても、これはしてはならないことだと思われます。あえて死を覚悟の上で、お願い申し上げます」
すると曹丕は「卿は直言を言える臣下だな」と述べ、全員を許すことにしました。
しかしながら、蘇則はこの件で、曹丕から疎まれるようになってしまいます。
左遷され、途中で死去する
二二三年になると、蘇則は東平の相に左遷されることになりました。
それから任地に到着しないうちに、病に倒れて亡くなります。
剛候とおくりなされました。
子の蘇怡が後を継いでいます。
蘇怡が亡くなると、子供がいなかったので、弟の蘇愉が後を継ぎ、後に尚書になりました。
蘇則評
三国志の著者・陳寿は次のように蘇則を評しています。
「蘇則は威厳があり、それによって乱を平定した。善政をしいたことと、剛直な人柄は称賛されるに足るものであった」
蘇則は優れた統治と戦略によって、西方で頻発していた反乱をおさめ、魏の領内に組み込むことに貢献しました。
能力の高さと剛直な性格が、この土地においてはよく機能したのだと言えます。
一方で、正義感が強く、遠慮のない性格は宮中では適したものとはならず、このために左遷されることになってしまったのでした。
中央に行かず、ずっと地方で長官として勤める方が、蘇則には適していたのでしょう。