孫に曹沖の後を継がせる
曹操は曹沖に騎都尉(騎兵隊長)の印綬を送り、孫の曹琮に曹沖の後を継がせました。
これらの措置から、曹操の曹沖に対する思いの深さがうかがえます。
やがて217年に、曹琮は鄧候に取り立てられ、列侯の身分に昇りました。
この影響で、曹沖は221年に鄧の哀候という諡号を追贈され、ついで哀公に格上げされています。
曹丕の辞令
魏の皇帝になっていた曹丕はこの時、次のような辞令を発しています。
「皇帝は申す。
ああ、なんじ鄧の哀候、沖(曹沖)よ。
昔、皇天はなんじの身に美を集め、聡明な才能を若くして完成させた。
長く幸福を授かり、その終わりを全うすると思っていたのに、どうしたわけか、不幸にして早く世を去ることになった。
朕は天から秩序を授かり、四海を保有し、身内の者を全て立て、王室の藩とした。
ただなんじだけはこの栄誉を浴しておらず、そのうえ葬礼も十分ではない。
追悼の思いに、いたましさたがあふれんばかりである。
このため、その遺体を高陵(曹氏の墓所がある土地)に移し、爵号を追贈して鄧公とし、大牢の犠牲をもって祭る。
霊魂があるならば、この恩寵と栄養を喜んでくれ」
曹丕はこのような措置を取りましたが、その心情には複雑なものがあったかもしれません。
曹丕は皇帝になったあと、弟たちを過剰なまでに冷遇するようになります。
それは弟の曹植との後継者争いが主因だったと思われますが、一方で曹沖が生きていたら、自分は皇帝になれなかったのだという思いが、弟たちに地位を脅かされるかもしれないという警戒心を、育てた結果なのだとも考えられます。

【魏の皇帝になった曹丕 曹沖への思いは複雑なものがあったと思われる】
曹沖の死によって暗殺された少年
この頃に、曹沖と同じように聡明で、並外れた才能を具えた周不疑という少年がいました。
曹操はその才能を愛し、自分の娘と結婚させようとしたほどに気に入っていました。
曹操は、いずれ周不疑は曹沖のよき補佐役になるだろうと期待していたのですが、曹沖が亡くなると、やがて周不疑を疎ましく思うようになります。
自分の子は死んだのに、どうして同等の才能を持つ周不疑は生きているのかと、理不尽な怒りにとりつかれていたのかもしれません。
やがて曹操が周不疑を殺害することを決意すると、それを知った曹丕が「それはいけません」と諫めます。
周不疑には何の罪もないのですから、当然のことでしたが、曹操は次のように答えました。
「周不疑は、倉舒(曹沖)ならともかく、おまえが使いこなせるような人間ではない」
そして刺客を差し向け、暗殺させてしまっています。
曹操の行動は、曹沖が関わると、どこかおかしくなってしまう傾向にあったようです。
またこの事件においても、曹丕は曹沖よりも下だったと位置づけられており、その心には強くわだかまりが残されたと思われます。
これらの挿話から、曹操は親としては問題のある人物だったことがうかがえます。
その一方で、曹操をおかしくさせるほどに、曹沖は非常な魅力を具えた少年だったということでもあるのでしょう。

