関東の統治を始める
一益は上野の厩橋城(うまばやしじょう)に入ると、関東の諸侯に書状を送り、織田氏への従属化を進めていきます。
北条氏や佐竹氏、里見氏らの関東の有力大名の他、東北の伊達氏や蘆名氏とも連絡を取り、幅広い影響力を持つようになりました。
そして北条氏には、占拠していた城を元の領主に返すように命じ、これを承服させており、信長の威望を背景に、強大な権限を備えていたことがうかがえます。
この年の5月に、一益は諸将を厩橋城に招待し、能楽の会を催して交流を深めました。
この時に一益は、息子たちとともに自ら演者になっており、芸術にも通じていたことがわかります。
こうして一益は順調に信長から与えられた役目を果たしていきますが、翌月に起きた変事によって、情勢が大きく変化することになります。
本能寺の変
この年の6月2日に、中国地方に遠征しようとしていた信長は、京都の本能寺に宿泊していました。
これを明智光秀が突如として襲撃し、信長を討ち取っています。
また、一益とともに武田征伐を行った嫡男の信忠も、この時に明智勢に攻められて自害しています。
この知らせは、6月7日に一益に伝えられました。
そして一益は家臣たちの反対を押し切り、正直に状況を上野の諸将に教えることにします。
6月10日には厩橋城に上野の有力武将たちが集まり、一益はこれから上方に戻って信雄や信孝(信長の次男と三男)を守り、光秀と一戦をする意志があることを伝えます。
そしてこの機に自分の首を取って北条に降る手土産にしようと思う者は、遠慮なく戦いをしかけてくるがよい、と堂々とした態度を見せました。
そしてこれから北条氏と決戦を行い、勝っても負けても上方に向かうつもりだ、と方針を告げます。
北条氏の進軍と、藤田信吉の寝返り
こうして一益が自身の覚悟を述べると、翌日には北条氏政からの書状が届き、引き続き友好関係を維持する旨が伝えられますが、これはもちろん嘘でした。
北条氏は領地に総動員をかけ、5万6千という大軍を編成し、信長の死後の混乱を利用して上野を奪うべく、進軍してきます。
この間に上野では、藤田信吉という武将が越後の上杉景勝に内通し、援軍を得て攻撃をしかけて来ますが、一益は2万の軍勢を動員してこれを撃退しています。
このことから、信長の死後にも、一益は上野の諸将たちをある程度は統率できていたことがわかります。
しかし、上野の統治を始めてからまだ3ヶ月しかたっていなかったことから、情勢は安定していませんでした。
このために北条氏との決戦の際にも、軍勢の一部を要所の守備に回さざるを得なくなります。
信濃の諸将は撤退し、一益は孤立する
一益は戦わずして逃げるのは恥だと思ったのか、こうして信長の死後にも関東に踏みとどまりました。
信長から与えられた重要な役目を、簡単に放棄することはできないとも考えていたのかも知れません。
しかし後背地である信濃や甲斐の諸将は、信長の横死を知って美濃方面への撤退を開始しており、一益は孤立してしまっていました。
このあたりは律儀でありすぎたが故に、損をすることになってしまったようです。
北条氏との決戦
一益は上野に進軍してくる北条氏を迎撃すべく、手勢のうち1500騎を抑えとして上野に残し、残る1万8000の軍勢を率いて出陣しました。
そして6月18日には、北条方の金窪城を攻め落とし、付近で行われた合戦で、敵将2名を討ち取り、北条氏の後継者である氏直の軍勢も撃破するなど、その強さを見せつけています。
翌日には北条氏の本隊との決戦が行われ、ここでも一益は3倍以上の兵力を持つ北条軍に対し、果敢に攻めかかりました。
一益は自ら3千の手勢を率いて2万の北条氏直軍に攻撃をしかけ、これを撃退します。
北条氏政はこれに対し、北条氏規が率いる1万の軍勢を動かし、一益を包囲しようとしました。
一益も上野の諸将を動かして対抗しようとしますが、彼らの動きは鈍く、積極的に戦おうとはしませんでした。
北条軍があまりに大軍であったため、臆してしまったのでしょう。
このために一益は、自軍のみで戦況を打開するしかないと覚悟し、「運は天にあり、敵中に打ち入って、討ち死にせよ!」と直属の部隊に命令を下し、突撃を敢行します。
この結果、北条方は崩れ立ちますが、やがて態勢を立て直した北条氏直軍からの反撃を受けると、数に劣る滝川勢は劣勢に追い込まれ、ついに敗走してしまいました。
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