上野の諸将と別れを惜しむ
敗れた一益は厩橋城に撤退すると、戦死者の供養を行いました。
そして上野の諸将から預かった人質を解放し、箕輪城(みのわじょう)で別れの宴会を開きます。
一益は自ら鼓を打ち、「武士の交り 頼みある仲の 酒宴かな」と謡うと、一益と親しくなっていた倉賀野秀景(くらがの ひでかげ)という武将が「名残今はと 鳴く鳥の」と応じ、互いに名残を惜しみました。
北条氏との決戦で、上野の諸将は全力で戦わなかったのですが、一益は恨みごとひとつ言わず、これまでの協力に礼を述べ、太刀や金銀を分け与えると、深夜のうちに出立しています。
このことから、一益は潔い性格の持ち主で、人望を得られやすい人柄だったことがわかりますし、信長の死がなければ、十分に関東を統率していくことができたでしょう。
伊勢に帰還する
一益は上野の抑えに残しておいた軍勢と合流し、2千の兵を率いて伊勢への撤退を始めました。
既に述べた通り、この頃には信濃や甲斐にいた織田方の諸将は撤退しており、容易に伊勢まで戻れる情勢ではありませんでした。
この時に、信濃の豪族である真田昌幸の嫡男・信幸が一益の撤退を支援し、途中まで見送ったという逸話があります。
一方で、木曽谷を支配する木曽義昌は、一益の通行を許可しませんでした。
このため、一益は信濃の諸将から預かっていた人質を引き渡すことで、ようやくここを通過しています。
そして尾張で新たな織田氏の当主となった三法師に拝謁した後、7月1日に伊勢に帰還することができました。
清洲会議に参加できず、面目を失う
一益が帰還する4日前、6月27日に清洲で会議が開催され、織田氏の新しい当主の指名と、信長と信忠、そして明智光秀の遺領の分割についての話し合いが行われました。
この会議の主役になったのは、明智光秀の討伐に成功した羽柴秀吉で、関東で敗れた一益とは対照的に、一躍天下人の地位を狙えるほどの権勢を手に入れています。
秀吉は信長の嫡孫で、まだ幼子である三法師を織田家の当主に据えて弱体化させます。
そして光秀の遺領を手に入れ、織田家臣団の中で、最大の実力を備えるようになりました。
その一方で、一益は上野を北条氏に奪われ、この会議に間に合わなかったことで面目を失い、重臣の立場から滑り落ちてしまいます。
柴田勝家に味方する
秀吉に対して不満を持つことになったのが、筆頭家老の地位を秀吉に奪われた柴田勝家と、織田氏の当主になりたかった信長の三男・信孝でした。
両者は手を結び、反秀吉同盟を構築します。
この時に秀吉も勝家も、織田氏傘下の大名たちに多数派工作を行い、一益の元にも、両者から誘いが来たと思われます。
一益は勝家に味方し、秀吉と戦うことになりました。
この理由は明らかではありませんが、自分が失脚した清洲会議で、反対に躍進した秀吉に対し、反感や敵意を抱いたのが原因だと思われます。
また、一益にとっては、器用で政治的な立ち回りに長けた秀吉よりも、純粋な武人で、硬骨漢でもある勝家の方が親近感を抱きやすかった、という理由もあったかもしれません。
秀吉との戦い
勝家は北陸に領地を持っており、このために冬の間は雪に妨げられて軍事活動を行えない、という弱点を持っていました。
秀吉は抜け目なくこの隙をつき、1582年の12月から、敵対勢力への攻撃を開始します。
まず、美濃を領有する信孝への攻撃を行い、これを降して信孝が手元に置いて離さなかった三法師を取り戻します。
これを受け、信孝と同盟していた一益は1583年の1月に挙兵し、北伊勢の諸城を攻め落としました。
そして一族をそれらの城に入れて守りを固めると、自身は長島城に入って秀吉の軍勢を迎撃します。
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