董允 費禕と親しみ、黄皓の台頭を抑えた良臣の生涯

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董允と費禕の関係

董允の話には、たびたび費禕の名前が出てきますが、彼らは若い頃から友人の間柄でした。

ある時、許靖きょせいという蜀の高官が、息子を亡くしました。

このため、董允は費禕と一緒に葬儀場に行こうとします。

その際に、董允が父の董和に「馬車が欲しい」と言うと、董和は鹿車ろくしゃという、鹿が一頭乗るのがやっとというくらいの、小さな馬車を董允にあてがいました。

董允は馬車が良いものではなかったので、乗り渋りますが、費禕は気にせず、すぐに前方から乗り込みます。

それから葬儀場に到着すると、諸葛亮を初め、高官たちがことごとく集まっており、立派な馬車が並んでいました。

このために董允は不安げな様子を見せましたが、費禕はゆったりとかまえ、落ち着き払っていました。

御者が家に戻ると、董和は彼にたずね、その様子を知ります。

そして董允に言いました。

「わしはいつも、お前と費禕のどちらが優れているのかをはかりかねていたが、いまではわしにも、それがよくわかってしまった」

馬車のことを気にして小さくなっていた董允よりも、そんなことを意に介さない費禕の方が大物であると、董和は判断したのでした。

実際のところ、董允は常に、費禕よりも一段下に置かれることになります。

既に触れた通り、費禕が侍中の時にはその下の侍郎でしたし、費禕が大将軍になった際には、その次官を務めました。

費禕のまねをしてみるも、うまくいかず

また、次のような話もあります。

費禕が尚書令の立場にあった頃、蜀の軍事や政治はともに多忙であり、公務は煩雑はんざつを極めていました。

費禕は人なみ外れた理解力を備えており、文書を読む時には、いつも目を上げてしばらく見つめただけで、その内容に精通することができました。

その速さは常人の数倍であり、また記憶力も優れていて、一度覚えたことは、決して忘れませんでした。

そのような優れた能力を持っていたので、費禕は朝と夕方に政務を始めましたが、その間にひん客の応接をし、飲食をしながら遊び、賭け事まですることがありました。

費禕は仕事もしっかりとこなしつつ、人生を楽しみを味わっていたのでした。

やがて董允は、費禕にかわって尚書令となるのですが、その際に、費禕のやり方をまねしてみました。

するとわずか十日の間に、多くの仕事が渋滞してしまいます。

このために、董允は嘆息して言いました。

「人間の才能や力量に、これほど差があろうとは。

とてもわしは費禕に及ばない。

一日中政務にかかりきりになっても、まだ暇が作れないことすらあるのだから」

このようにして、董允は費禕の引き立て役になっていますが、両者の力関係は、このようなものだったようです。

董允も優れた人材でしたが、天才が同世代にいたために、蜀の家臣団の頂点に立つことは、なかったのでした。

董允評

三国志の著者・陳寿は董允を次のように評しています。

「董允は主君をただし、その道義は顔色にまで現れるほどだった。

蜀のよき家臣である」

董允が亡くなった後には、黄皓が他の官吏と手を組んで、蜀の国政を壟断ろうだんするようになり、あっという間に国勢が傾き、魏に滅ぼされてしまいました。

このため、蜀の民で、董允を追慕しない者はなかった、と言われています。

一方で劉禅は、黄皓や、側近の陳祇ちんしらに董允の悪口を吹き込まれるうちに、その影響を受け、董允への怨みを募らせていっていました。

このことからも、劉禅はその性質が暗愚であり、賢臣たちの支えによって蜀が保たれていたことがうかがえます。

このため、彼らが世を去ると、ほどなくして蜀は瓦解してしまったのでした。

なお、董允の孫の董こうは蜀の滅亡後に晋に仕え、巴西はせい郡の太守(長官)にまで立身しています。