諸葛亮に称賛される
諸葛亮は後に、蜀の丞相になってから、部下の役人たちに次のように述べました。
「公務に携わる者は、人々の意見を求めて参考にし、主君の利益を上げるように努めなければならない。
もしもわずかな不満によって人を遠ざけ、自分と意見の異なる者を非難し、自分の行動を見直すことを厭うならば、仕事に欠陥を生じ、損失を招くだろう。
異なる意見を検討し、適切に施策を行えば、それは破れ草履を捨て、珠玉を手に入れるようなものである。
とは言え残念なことに、人間はそうそう、すべての事に気を回すことはできないものだ。
ただ徐元直(庶)だけは、こうしたことに対処して迷わず、また董幼宰(和)は、職務に携わること七年、仕事の上で不十分な点があれば、何度も熟考し、私に相談をしにやってきた。
もしも徐元直の十分の一の謙虚さと、董幼宰の、繰り返し物事を検討する態度を参考にし、国家に忠誠を尽くすのであれば、私も過失を少なくすることができるだろう」
董和の没年は不明ですが、劉備に仕えたのが7年間だったのであれば、劉備が蜀を支配したのが214年ですので、221年頃に亡くなったのだと思われます。
諸葛亮と気が合っていた
また、諸葛亮は次のようにも述べています。
「私は昔、崔州平と付き合っていたが、しばしば欠点を指摘された。
また徐元直と付き合い、何度も教示を受けている。
そして董幼宰と一緒に仕事をしたら、彼はいつも言いたい事を遠慮なく言ってくれたし、胡偉度(済)はたびたび諫言をして、私の間違いをとめてくれた。
私の性質は暗愚であり、これら全てを受け入れることはできなかった。
しかしながらこの四人とは、終始気が合っていた。
これは彼らの直言をためらわない態度を、証明するに足るものである」
このように、しばしば諸葛亮は董和の名を出して語っており、その関係が親しいものであったことがうかがえます。
董和は蜀の初期において、諸葛亮に協力し、国家体制を確立するのに貢献した人物だったと言えます。
またこの話からは、諸葛亮が周囲の人々の声によく耳を傾け、助けられることで、優れた統治者となっていたことがわかります。
董和評
三国志の著者・陳寿は「董和は羔羊の詩にうたわれる、質素な行いをした」と評しています。
羔羊は『詩経』という詩文集の中にある、「召南の国は、文王の政治によって教化され、位にあるものはみな節倹正直で、徳は羔羊(子ひつじ)のごとくなり」という一節の名称です。
子ひつじは乳を飲むとき、ひざまずき、遠慮して恥じらうことから、「羔羊の徳」は「与えられる物に対し謙虚にふるまう」ことを指しています。
ですので陳寿は、身分を超えた行いをすることなく、謙虚であることを、自分にも民衆にも求めた董和の評に、この文句を使用したのでしょう。
また『季漢輔臣賛』という、蜀の功臣たちを称える書物では、「董和は清潔な節操を持ち、意気高らかにして不動の心を持ち、直言を述べ、民衆はその道義を追慕した」と書かれています。
董和の後は子の董允が継ぎましたが、彼もまた公正かつ忠実な人物で、劉禅の側近としてお目付役になり、彼が道を踏み外さないように努めました。
親子二代にわたって、蜀が国家として成り立つように、尽力したのだと言えます。