養父と母の死
1583年になると、信長死後の主導権を巡る秀吉と勝家との対立が激しくなり、両者はともに大軍を繰り出して北近江の賤ヶ岳(しずがたけ)で対決します。
この戦いの結果、勝家は敗れ、北ノ庄城に戻ってしばしの抗戦の末に自害しました。
この時に勝家は結婚したばかりのお市の方に、再び娘たちとともに城を脱出するようにと勧めます。
しかしお市の方はこれを拒絶し、勝家とともに自害する道を選びます。
2度目の落城と夫の死を目前にして、長政が死んだ時と同じ思いをしたくない、と考えていたのかもしれません。
娘たちを後に残すことになるため、お市の方は秀吉に書状を送り、自分の死後のことを託しています。
こうして養父と母が自害して果て、茶々と妹たちは孤児となってしまいました。
茶々たちは北ノ庄城の落城の際に城を脱出し、その近隣に住んでいましたが、やがて秀吉からの迎えを受け、しばらくは安土城で暮らしていました。
以後は父・浅井長政の姉や、信長の弟・織田長益(有楽斎)などの世話を受け、成長していきます。
秀吉の妻となる
1588年、19才で茶々は秀吉の側室となります。
秀吉はこの時50才で、かなりの年の差があったことになります。
茶々がどうして秀吉の妻となったのか、その経緯は不明ですが、秀吉は茶々をかなり気に入ったようで、足繁くその部屋を訪れるようになります。
そして1589年に茶々は懐妊し、鶴松を生みました。
年老いてからの実子の誕生を秀吉は大変に喜び、鶴松を自分の後継者に定め、山城(京都)の淀城を茶々に授けます。
こうして茶々は淀城に移り住むことになり、それから「淀の方」や「淀殿」と呼ばれるようになりました。
天下人の子どもを生んだことから地位が大きく向上し、秀吉の正妻である高台院と対等の立場を得ることにもなります。
あるいはそれをもくろんで、茶々の方から秀吉の側室になることを望んだのかもしれません。
妹たちはそれなりの身分を持つ若い武将と結婚していましたが、茶々は同じように扱われることを嫌い、秀吉と、彼にまつわる権力の世界に近づくことを求める、野心的な女性であったのだとも考えられます。
鶴松が病死するものの、新たに秀頼を生む
1591年に鶴松が2才で病死してしまいますが、茶々は1593年になると、再び秀吉の子・秀頼を生みます。
それまで秀吉は多くの側室を抱えながらもほとんど実子が生まれなかったのに、茶々との間にだけ次々と子が生まれました。
これは不自然であるとして、実は父親は別の人間だったのではないかと見るむきがあります。
秀頼は後に身長が190cmもある巨漢に成長し、一方で秀吉は体格が小さかったことも、この疑いの根拠となっています。
しかし秀吉ほどの人が、茶々が別の男との間に子どもを作っていたのに気がつかなかったとも考えにくく、このあたりの真偽は不明なままとなっています。
身長については、長身だった茶々の父・長政の血を引いているから、と説明することもできます。
ともあれ、秀頼は鶴松とは違って健康に育っていき、茶々は再び「天下人の子の母」という立場を手に入れ、やがて権力を増大させていくことになります。
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