二条城の会見
茶々の強硬な姿勢に危機感を抱いたのが、加藤清正や福島正則らの、かつての秀吉子飼いの大名たちでした。
彼らは日々強まっていく徳川家の実力を冷静に評価し、豊臣家が存続するためには徳川家に臣従するしかない、という現実が見えていました。
このため、茶々と家康に働きかけ、家康と秀頼の対面を実現するべく運動を行います。
この動きに豊臣家の重臣・片桐且元も加わり、会見を行わなければ「関東と不和になり、合戦が起こるのは確実です」とまで茶々に告げました。
重臣と秀吉子飼いの大名たちの言葉には、茶々もさすがに耳を傾けざるを得なかったようで、1611年に京都の二条城で会見が実現します。
この時の秀頼上洛の名目は、「妻・千姫の祖父に挨拶する」というもので、臣従を約束するためのものではありませんでした。
しかしこれが豊臣家と徳川家の関係改善につながると、清正らは期待していたことでしょう。
会見そのものはつつがなく終わったのですが、その直後から、次々と豊臣家と関係の深い大名たちが死去してしまいます。
加藤清正らの死
会見の直後に加藤清正は病に倒れ、間もなく亡くなってしまいます。
さらに秀吉の妻・高台院の実家である浅野家の当主・浅野長政と、その子の幸長(よしなが)が相次いで亡くなります。
彼らはいずれも徳川家に仕えつつ、豊臣家にも忠誠を誓うという態度の大名たちでしたので、家康によって暗殺されたのではないかという噂が流れます。
ことの真偽は不明ですが、こうして茶々と秀頼は、頼れる存在を次々と失ない、豊臣家の諸大名への影響力が大きく低下します。
秀吉に直接恩を受けた大名は福島正則くらいのものとなり、徳川家に対し、危険を犯してまで逆う可能性のある者はいなくなりました。
家康にとっては、その気になればいつでも豊臣家を滅ぼせる状況が作り出されたことになります。
方広寺の鐘銘を巡るいさかい
1614年に、豊臣家は京都の方広寺の再建事業を行っています。
この再建事業は家康から勧められたもので、豊臣家の持つ莫大な財宝を消費させることが狙いだったと言われています。
この年の4月に梵鐘が完成し、工事の奉行を務めていた片桐且元が、清韓という僧に銘文を選定させ、それを刻みつけます。
そして家康に開眼供養の日取りなどを相談していたのですが、やがて家康が、鐘の銘文に問題があると言い出しました。
この鐘には「国家安康」という文字が刻まれており、「家」と「康」の字を分けて刻んだのは、家康への呪詛を込めるためなのだろうと非難してきます。
これに対し、銘文を選定した清韓は、家康の名を安易に刻んだのは手落ちだったが、呪詛の意図はなく、むしろ家康への祝意を込めたものだと弁解します。
しかし家康側は、銘文の「君臣豊楽」という言葉には、豊臣家が栄えるようにと祝意を呈していると指摘し、「国家安康」と合わせ、これは家康を呪って豊臣家が栄えるように念じたものだろうと主張を続けました。
家康に報告をしながら行っている寺院の再建事業で、家康を呪う文面をわざわざ鐘銘に刻むのは考えられない事態です。
これは家康が豊臣家を糾弾するためにわざと曲解し、難癖をつけたと考えるのが妥当であると思われます。
【次のページに続く▼】