長宗我部盛親は土佐(高知)の大名・長宗我部元親の4男でしたが、父に強く推されてその後継者となります。
しかし父の死後、関ヶ原の戦いで西軍についてしまい、何もできないまま敗者となって領地を失います。
その後は長らく浪人生活を送りましたが、豊臣氏に勧誘され、起死回生を目指して大坂の陣に参戦しました。
この文章では、そんな長宗我部盛親の生涯について書いてみます。
【長宗我部盛親の肖像画】
長宗我部元親の4男に生まれる
盛親は1575年に、長宗我部元親の4男として生まれました。
長宗我部元親は土佐の一領主の身分からのし上がり、四国制覇を目指して活躍した英傑です。
盛親はその子ではあったものの、兄たちが健在でしたので、本来であれば長宗我部氏を継ぐ立場にはありませんでした。
しかし九州で起こった悲劇が、盛親を思わぬ運命に導いていくことになります。
長兄・信親
盛親が物心ついた頃には、長宗我部氏は豊臣秀吉に敗北し、その臣下になっていました。
土佐一国の領地を安堵されてはいたものの、それ以上の自力拡張は不可能となり、秀吉のために働く立場に立たされていました。
1586年に秀吉は九州征伐を行うことになり、父・元親もそれに従軍することになります。
先遣隊の一員となり、土佐の兵を率いて北九州に向かいますが、元親はこの時、嫡男である長宗我部信親に先鋒を担わせます。
この信親は元親の長男で、盛親の兄です。
幼いころから英才教育を受け、文武ともに秀でた若者として成長していました。
元親は信親を溺愛し、自分以上に長宗我部家を発展させるだろうと期待をかけていました。
しかしその願いは北九州での戦いで、潰えることになってしまいます。
戸次川の戦い
九州征伐の先遣隊は、秀吉配下の仙石秀久という武将が総大将を務めています。
この頃の九州は島津氏が席巻しており、薩摩(鹿児島)から領土を広げ、北九州にまで軍を送って来ていました。
先遣隊はこれを牽制するのが役目で、むやみに打って出ないようにと秀吉から戒められています。
しかし、仙石秀久は北九州に上陸すると秀吉の命令を無視して、自軍を上回る数の島津軍に無謀な攻撃をしかけます。
これを「戸次川の戦い」と言います。
仙石秀久は自軍が押され気味になると、友軍である長宗我部隊を見捨てて一目散に逃走してしまいます。
このため、先遣隊は総崩れとなりました。
この時、長宗我部隊の先鋒を務めていた信親は、後衛にいる父・元親を守るため、最後まで撤退せずに戦って時間を稼ぎますが、やがて力尽きて戦死してしまいます。
戦場からからくも逃げのびた元親は、後に信親戦死の知らせを聞き、衝撃を受けて自害を図ったと言われています。
しかし家臣たちに説得されて思いとどまり、失意のままに帰国しました。
こうして長宗我部家は嫡男を失い、後継者問題が勃発することになります。
後継者問題
盛親には香川親和と、津野親忠という二人の兄がいました。
姓が長宗我部でないのは、いずれも土佐の支配を固めるため、有力な領主の元に養子として送り込まれていたためです。
こうした措置は戦国時代にはよく行われており、織田信長や毛利元就も同じことをしていました。
信親の死後、秀吉は次男の香川親和を後継者にするように元親に勧め、家臣たちも賛同します。
しかし元親はこれを退け、4男の盛親を推して当主の座につけようとします。
これは元親が盛親を溺愛していたためだと言われています。
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