京都を脱出して大坂城に入る
勇んだ盛親は旧臣たちに連絡を取り、従者を集め始めます。
この盛親の動きを察知したのか、板倉勝重に呼び出され「大坂城に入城するつもりなのか」と詰問されます。
しかし盛親は「兵を集めて徳川氏に味方し、戦功を立てていくらかでも所領をもらいたいだけだ」と答え、追求をかわすことに成功します。
さらに「紀州の大名・浅野長晟に味方する約束をしている」と言って板倉勝重を油断させ、その隙をついて大坂城への入城を果たします。
苦労を重ねた盛親は、この程度の詐略は用いることができるようになっていました。
京都を出発した時にわずか6人だった従者は、大坂城に入城した時には1000人にも膨れ上がっていました。
旧臣たちが奔走したのでしょうが、長宗我部氏は改易の過程が過程なだけに、無念に思って再起を期待していた者たちが多かったのでしょう。
こうして盛親は、ようやく自分の意志をもって、天下の表舞台に乗り出すことができました。
それは危険の多い道のりでしたが、盛親の心は奮っていたことでしょう。
大坂の五人衆の一員となる
大坂城に入城すると、長宗我部氏の旧臣たちはさらに集結していき、数千の軍を編成できるほどの規模になりました。
これによって、盛親は浪人衆の有力な諸将のひとりとして数えられ、「大坂の五人衆」と呼ばれる存在になります。
高名な後藤又兵衛や、真田幸村、毛利勝永らの武将と並び称されたことになります。
長宗我部氏の持つ底力の大きさがうかがい知れますが、同時にこれが、徳川家康から警戒される原因にもなりました。
大坂冬の陣・真田丸の戦いでの活躍
大坂城には、南側の防御力が低いという弱点がありました。
このため、真田幸村が提唱し、真田丸という追加の防御施設が建築されます。
盛親の手勢は、真田幸村の部隊と協力してこの真田丸の守備につくことになりました。
そして徳川家康率いる15万の大軍が大坂に到着すると、南方の戦線でにらみ合いとなります。
家康が攻撃を自重させていたために戦況が膠着しますが、やがて真田幸村が、正面で対峙する前田利常の部隊に挑発をしかけます。
これに乗せられてしまった前田利常隊が、家康の命令を破って真田丸に攻撃を開始します。
すると、近くに布陣していた松平忠直や井伊直孝などの徳川方の諸隊も、これに呼応して大坂城の南口に攻めかかります。
この結果、両軍合わせて数万の大軍が動く大規模な戦いに発展しました。
盛親は南口の守備についており、攻め寄せてきた松平忠直や井伊直孝の部隊に矢弾を浴びせ、撃退に成功するという戦功を立てています。
真田丸でも長宗我部勢は前田利常隊を撃退しており、真田幸村と合わせ、大坂勢の中で存在感を放ちました。
盛親にとっては、これが初めての大規模な戦いでの勝利となりました。
大坂城の堀が埋められ、情勢が悪化する
その後は大きな戦いもなく、やがて豊臣氏と徳川氏は和平を結びますが、その条件として大坂城の外堀を埋めることになります。
しかし、徳川氏はこの約束を破ってすべての堀を埋める作業を強行し、大坂城は裸城となってしまい、防御力を失います。
圧倒的に不利な情勢になりましたが、盛親はそのまま大坂城にとどまり、戦いを続けることにします。
すでに大勢の家臣たちが集まっていたことから、簡単に退転できなくなった、という事情もあったでしょう。
また、長宗我部氏の再興のため、その可能性が完全に潰えるまでは諦めない気持ちを持っていたようです。
盛親は忍従の日々を長く過ごしたせいか、執念深く、粘り強い性格にもなっていました。
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